暗殺のワルツ

野阿 梓
(SF作家)

この作品は、一見、ある青年の恋と冒険の物語のようにも読める。

実際、主人公のフランス軍大尉は、恋と冒険に身を焦がす。舞台は、タイトル通 り1809年のウィーン。いわゆるワグラムの戦いの前後、ナポレオンは全ヨーロッパの覇者となる途上にあり、一青年は、恋と冒険の果 てに、その皇帝ナポレオン暗殺をめぐる複雑怪奇な陰謀に、まきこまれるのだ。 恋と冒険、暗殺と陰謀。なんと甘美な響きにみちた言葉であることか。しかし、それは罠である。誰の? 作者自身による、周到に張り巡らされた、悪意ある罠なのだ。誰に対して? およそ全ての男性に対して。その夢であろうところの、まさしく、恋と冒険と陰謀といった、〈男のロマン〉が、ことごとく愚劣なものである、と遙かな高みから嘲笑する、作者の底知れぬ 悪意によって、作り上げられた、これは物語(=ロマン)の暗殺でもあるのだ。

しかも、この小説は、ある人にとっては、本当に一青年の恋と冒険の物語としか、読めないだろう。そのようにも作られているからである。だが、読む人によっては、なにより巧緻に織り上げられた豊饒なる小説の味わいを感じとると同時に、作者の悪意の深さも読みとることが可能なのだ。〈男のロマン〉がおしなべて愚行である、との作者の嘲笑を高みに聞きながらも、最後の最後まで生命がけで恋と冒険に生きる主人公の姿は、たとえその結末が彼の掌中になにひとつ残らなかったにせよ、胸に迫る感動はある。作者の悪意を感じとりつつも、一種、爽快な虚無感とでもいうべき、清々しい読後感をもつことが出来る。重層的な構造をもつ作品なのである。

作中、主人公がウィーン市内の時計職人と接触する場面 がある。十九世紀初頭の中欧で、おそらくその技術は頂点に達していたはずの、時計細工と同じく、作品のなかの言葉の一つひとつは、一分一厘の狂いもなく歯車のようにかみ合い、回転し、歴史のメカニズムを動かし、やがて運命の刻を鳴らす。あるいは、工兵隊の士官である主人公が、ウィーンを無防備都市と化す際に、城壁を爆破するシーンで語るように、工兵隊の優秀な将校が立案した計画どおりにやれば、あとは機械作業で、爆破準備は完成するのだ。プロットも同じである。天才的な作者が、準備してやれば、あとは勝手に、人物たちが、時限爆弾のセコンドに追われるようにして、物語を進行させてゆくだろう。精緻な設計図と爆破/破壊のメタファーは、作中いたるところに頻出し、作品それ自体が、一個の設計図であり、破壊の書でもある。ヨーロッパは、結局、このナポレオン戦争において、全ての国家と国家間の社会構造を根こそぎ破壊されたのではなかったか。大革命をへて、十九世紀初頭において、近代国家という名の怪物を生み出すことによって。

それにしても、どうしたら、このような精密機械のごとき作品が可能だったのか。同業者として、私は、この壮大にして細緻な構築をまえに、いささか茫然と佇むしかない。

例えば、冒頭、工兵隊の大尉である主人公が、濁流のドナウ川に架橋工事をするシーンが出てくる。だが、さりげなく描かれているにも関わらず、この圧倒的なリアリティは、想像では、もちろん書けない。日本語に翻訳された資料などにも、出てくるはずがない。いや、ヨーロッパ本国においても、同様であろう。ナポレオン戦争について書かれた史書、戦記は数々あれど、ワグラムの戦いの前夜に、名もなき工兵部隊がいかにして徹夜で架橋したか、などといった史実を、ここまで微にいり細にわたって描いた史料が、そうそうあるわけはないのだ(ついでながら、このスタイリッシュな小説では、あえて触れていない事実を、野暮を承知で記しておくと、同年五月二十一日にアスペルンの戦いでウィーン軍に破れたナポレオンは、必死に軍勢を立て直し、七月四日、夜陰に乗じてルスバッハ川を渡河。敗走するオーストリア軍を追撃し、六日、ワグラムの戦いで、同軍を打ち破った。戦意喪失したオーストリア政府が、ツナイムで休戦条約を結んだのは七月十二日のことである。この作品では、そうした著名な史実は、ことさらに背景に押しやられており、そのかわりに、誰も知らないような細部を、克明にこだわって描いているのである)。

どうやって調べるか、くらいは見当がつく。そして、その途方もない困難さに、またもや茫然とせざるをえないのだ。物語の一節に、その種明かしを、ちらと見せている。フランス軍情報部の将校が、自分の秘書が小説を書いていて、「大陸軍では誰も彼もが小説を書く」と独白する箇所がある。そう、退役した軍人、それも、工兵隊という、企業でいえば庶務課などに相当するくらい地味な部署にいた士官でさえ、晩年には、それを自分史として記録に残した可能性はあるだろう。それは、彼の死後、遺族によって出版されたかも知れない。せいぜい、百部か二百部、当時の印刷技術の水準や、出版流通 の事情を考えても、その程度だろう。現代に生きる我々の自費出版と、そうへだたりはあるまい。前線で悪天候のなか、濁流に架橋工事をした兵士は、あるいは、閲兵に来たナポレオンと間近かに接したかも知れない。英雄でも、雲の上の人としての皇帝でもない、軍の総司令官としてのナポレオンを、そのような眼差しで至近距離で見た記録があるかも知れないのだ。しかし、そういう史料があるはずだ、ということが判っていても、それを、どうやったら探せるというのか。逆のことを考えれば、その困難さは容易に想像できるだろう。二百年も昔に書かれた、日本の一地方都市の郷土資料館くらいにしか保存されていない類いの本を、外国人である著者が、いかにして探し当てることが出来るのか。

だが、作者は、それをやっている。やらなければ、この作品のあのリアリティは出ない。まるで目の前に現前するように、こまやかに描写 された架橋作業、前線であるはずなのに、どこか緊張感を欠いた、彼らの兵舎とその日常生活、征服されたウィーンの街並み、市民のようす、そこでさえ抜け目なく立ち回ろうとする政商たちや、彼らとの交渉など、どれ一つとっても、ディティールは生き生きと描かれている。そのためには、実際に自分で現地を訪れるだけではすまない。その図書館に行き、タイトルも著者も不明だが、こういう種類の史料がないか、訊ね歩き、厖大な本の山から、目当てのものを探しだし、メモを取る。気の遠くなるような作業の積み重ねが必要だったはずである。

数年前、サバティカル・イヤーでフランス留学から帰国した大学の教官の講演を聴いた。それによれば、フランスの特殊なジャンルの公共図書館の職員は、とにかく気位 が高く、働らかないそうだ。図書館員に限らないが、昼は、二時間は休むし、午後も三時か四時には、平気で閉館してしまう。本をコピーするには、もう平身低頭で依頼する以外にないという。相手の気分を損ねたら、書庫から本を出しても貰えない。よく、アメリカの大学に留学して帰国した学者が、アメリカの大学図書館と、日本のそれとを比較して、不平不満を述べるが、フランスに較べると、まだまだ日本の図書館員のほうが働き者であるそうだ。

そのようにして、著者は、地道な努力を重ね、徹底的にナポレオン戦争に従軍した工兵隊の士官の記録を調べ上げたに違いない。ところが、作者は、そうして調べた痕跡を、にもかかわらず、みじんも作品には表わしてはいないのだ。このストイックさは、尋常なものではない。評者が知るかぎり、そのような作品を書いたのは、他に、久生十蘭くらいしか、思いつかない。

私事になるが、実作者でもある評者にとって、小説の神様は久生十蘭だけである。これは、十蘭ひとりいれば、あとは、小説家の最高峰など、要らないや、という程度の意味で、神様というのが云いすぎならば、「ヒカルの碁」ふうに、<神の一手に一番近い者>と云ってもいい。小説も、これくらいのレヴェルになると、もはや純文学であるとか、エンターティンメントであるとか、そういったジャンル区分は不毛である。ただ、最高級の作品がそこにある、それだけだ。ともあれ、久生十蘭は、そのような作品を書いた作家であった。そして、佐藤亜紀もまた、<神の一手>を目指している、いや、おそらく現行の小説家では、そこへの道に一番近いところにいる作家なのである。

先に「恋と冒険と陰謀といった〈男のロマン〉が、ことごとく愚劣なものである」として、作者がそれを高みから嘲笑している、と書いたが、一般 には、そうした〈男のロマン〉を謳いあげるのが、冒険小説だと思われている。フェミニズム小説は、男性原理の社会を否定的に描くが、佐藤亜紀の場合、通 常のフェミニズム小説をはるかに越えた水準の悪意で、他ならぬ冒険小説の意匠を借りて、〈男のロマン〉とやらをもてあそぶのだ。事実、主人公は、ふつうだったら、典型的な冒険小説のヒーローとして、文字通 りヒロイックな活躍をするはずが、散々に運命(=作者)に翻弄される。

しかも、プロットだけ抜き出してみれば、これは、ごく一般 の冒険小説の常套を踏襲しているのだ。開巻劈頭で、死体が転がり、謎の殺人者が影だけ残して消え去る。この殺人者の正体は、最後まで明らかにされないから、この小説は一種のミステリとしても読めるだろう(もっとも、年季の入ったミステリ・ファンならば、正体だけは見当がつく。しかし、動機までは判らない)。砲声も遠い戦場では、無益なまでに厖大な死者が出ているにもかかわらず、占領地区での、それも二重スパイだったかも知れない一人の男の殺人事件に始まるサスペンス劇が、最後まで謎を不明にしたまま、物語をドライヴしていく。しかも、そこには重層的な構造があり、〈男のロマン〉を描きつつも、それが、いかに下らないかが、揶揄的に描かれる(恋の成就であるはずの、幾たびもの逢瀬の即物的な描写 は、男性に対する悪意以外のなにものでもあるまい)。恋も冒険も、ここではゲームである。そしてゲームには規則が必要だ。主人公は一介の工兵隊の大尉にすぎないにも関わらず、いきなり全ヨーロッパの運命が、彼のまわりに集約されて説明されてしまう。その手並みの鮮やかさには、ため息が出るばかりである。『ハムレット』で、当時のデンマークが置かれた政治情勢を、冒頭で、無理やり説明する、微笑ましい場面 があったが、四百年後、技術的には、ゆきつくところまで行きついた小説の、これは超絶技巧とも云えよう。具体的には、スタンダールの同時代人というよりは、むしろ少し早手まわしに登場するドストエフスキーの世界から現れたような人物が、その技巧を支える。そこには、革命によって近代国家を樹立したフランスが、依然として封建的な全ヨーロッパを相手に革命戦争を戦いぬ くために、皆兵制をとって、近代戦争と革命の輸出により、世界を制圧していった過程で、はじめて生まれた種類の人間の、虚無的な心の闇がある。その意味では、これは、主人公はスタンダールの時代に生きていながら、作品世界はドストエフスキーの時代、すなわち来るべき二十世紀の昏さを予感している小説なのだ。前者に属する主人公は、後者と関わるにあたって、恋と冒険とをゲームにするしか術がない。両者を結ぶ唯一の架橋が〈ゲーム〉だからだ。そして、無償の情熱をかたむけ、時には自分の生命をも賭けて争う〈ゲーム〉もまた、男たちの愚行のひとつであろう。さらにいえば、スタンダールの、あるいは、ドストエフスキーの時代でさえ、侠気=〈男のロマン〉が称揚されていたとしたなら、これは間違いなく、その男たちの蒙を啓いて批判する〈現代小説〉なのである。

ともあれ、この作品を読み終わった読者は、誰しも贅沢な小説を読んだ至福の気分にひたれるだろう。芳醇な馨りにみちた、上質のヴィンテージ・ワインにも似た味わいに、実生活を、つかのま、忘れるかも知れない。それほど、作品の水準は高い。一分の隙もなく、言葉は紡がれ、物語の構成は微動だにせず、不動である。けして難しい文章ではない、むしろ文体としては平明であるが、しかし、その構造は幾重にも重ねられ、使われる言葉は、一語たりとも揺ぎがない。作品世界の背後には、作者の、底が知れないまでの教養の広さ、豊かさを感受できる。こういう小説は、そう読めるものではないし、また書かれるものでもない。存在自体が、一個の奇蹟に近いと云えよう。これは、そのような作品なのである。

 

 

この書評には、野阿氏自身の付記が巻末についていました。ご興味のある方は野阿氏のHPにリンクしてありますので、そちらでお楽しみ下さい。