二、 血盆経の日本への伝来
[亡母供養の場への導入]
血盆経の日本への伝来時期は定かでないが、遅くとも室町期までには伝来し、ある程度流布していたことが資料的に確認できる(以下の資料については、3・20中の指摘による)。
管見の範囲で最古の資料は、武蔵国深大寺(天台宗)の長弁による『長弁私案抄』所収、1429年2月、井田雅楽助亡母三十三回忌の諷誦文である。それによれば、法要に際して法華経・阿弥陀経・尊勝陀羅尼などとともに、血盆経3巻が書写されたことがわかる。同様の記事は、五山僧(臨済宗)の著述や公家日記のなかにも散見している。横川景三の語録詩文集『補庵京華続集』所収の「実際正真禅尼香語」によると、1482年5月5日、実際正真禅尼の十七年忌のときに、法華経1部とともに血盆経1巻が血書されている。景徐周麟の語録詩文集『翰林葫蘆集』所収の「畝苗正秀禅定尼尽七日拈香」には、1487年7月23日、源国範の亡妻の66日目の法要で、「大乗妙法之典」とともに血盆経10巻が書写されたとある。また、甘露寺親長の日記、『親長卿記』1491年8月28日条には、亡母の三十三回忌に際して、親長自身が法華経1部とともに血盆経7巻を書写したことが記されている。さらに三条西実隆の日記、『実隆公記』1496年10月14日条には、実隆の母の二十五年忌に、故人の甥にあたる甘露寺元長(親長の嫡子)が血盆経一巻を書写して持参したことが書き留められている。これらはいずれも、子供を持つ女性の追福供養における事例である。
亡母を弔うために用いられた経典としては、提婆達多品において龍女の変成男子(女性が男性に転じて成仏する)を説く法華経が代表的であるが、血盆経は母の救済を説いており、そのことによって、亡母供養の場に導入されたものと思われる。
[血盆経本文の問題]
先にも触れたように、血盆経には本文異同があり、いくつかの系統に分けることができる。筆者の未見分を含め、現在までに報告されている血盆経伝本は、中国のもの5本、朝鮮版かと目されるもの1本、日本のもの約60本にのぼる。時代的には、中世から現代に及ぶ。
日本の血盆経諸本の分類案は、武見李子氏が提示したもの(6・7)と、武見氏の分類を再検討した松岡秀明氏のもの(15)とがあるが、両氏の説を勘案した私見を示しておく。
諸本は、書き出し、女性の堕獄理由、誰が救済方法を教示するかという三点を指標として、大きく以下の六つに分けることができる。
A 爾時目連尊者 産の血 獄主
B 如是我聞 産の血
獄主
C 爾時目連尊者 産の血と月経 獄主
D 爾時目連尊者 産の血
仏
E 如是我聞 産の血 仏
F 爾時目連尊者 産の血と月経 仏
ここでは分類の指標としなかったが、陀羅尼や願文の有無という異同もある。
中国の伝本と朝鮮版かと目される伝本は、いずれもAに属する。日本の年紀の定かな最古のものは、惟高妙安『諸冊抜萃』第二冊所引の本文である。これは不明箇所もあるが、「印本」とあり、当時版行されていた血盆経に基づいていることがわかる。次いで古いのは、1599年、舜貞書写の『血盆経談義私』のものである。これは血盆経の注釈書で、本文は科段されているが、全文を復元することができる(いずれも、
53、高達奈緒美・牧野和夫「日光山輪王寺蔵慶長四年釈舜貞写『血盆経談義
』略解題並
びに翻刻」、『実践女子大学文学部紀要』43、2001・3に翻刻)。
これらの二つも、A系統に属する。また、中世の伝本かとされる元興寺極楽坊本も(ただし、もっと時代が下るとの見方もある)、A系統である。このことからすると、A系統が古い形であり、それ以外のものは派生的な本文であるかのように見える。
先に述べたように、従来、血盆経の本文異同を、日本的変容の結果とする説が一般化していた。それは、もとは堕獄理由が産の血だけであったのが、江戸時代になって日本で月経の罪が付け加えられたとするものであった。だが、中国にも月経の罪を挙げる本文があった可能性は高く(仏教の血盆経を受容して作られた中国道教の経典『元始天尊済度血湖真経』は、月経の罪を挙げている)、A〜Fには属さない、別系統の本文を持つ伝本の存在も想像できるのである。本文分化は中国において生じていた事態で、複数の系統の伝本が日本に伝わったのかもしれず、中国の伝本の調査が不十分な現時点では、本文系統の新旧の判断はつきがたい。
三、血盆経信仰の広がり
[中世血盆経異伝]
1466年書写の
『(聖徳)太子伝』(天台宗系のもの)、聖徳太子13歳の条に次のような記述がある(14・52)。以下、要点のみを現代語訳する。
「羽林国(羽州)の都、追陽懸に、夷多羅女という姫をもつ頻婆娑羅王がいた。この姫は嫉妬の念が強く、非常に長い時をかけて罪を償ったその跡が、血盆池となった。王は目連にとっては伯父にあたり、目連はこの地獄に入ってみた。ここは、五欲(眼・耳・鼻・舌・身の五官による欲望)・三毒(むさぼり・いかり・愚かさ)の血を月経として流し、仏神や僧を穢す罪によって、女性だけが堕ちる地獄であった。目連が血盆経を書いてこの地獄に投げ入れると、地面が震動し、池には蓮華が生えてきた。女性達はこの蓮華に座って、救済されていった。『私(釈迦か)が涅槃に入ったのちにも、女性がこの経を受持して永く血盆池を離れれば、観音大士が二求(楽と長命を求める欲求)両願に誓って、現世の安穏と来世の得果、信心安楽をもたらすであろう』」。
この資料には、いくつか興味深い点がある。まず第一点は、血盆池地獄の発生が、夷多羅女の嫉妬と絡めて語られている点である。女性を嫉妬深い存在とみなす眼差しは、日本の中世・近世の説話や物語などに、枚挙に暇がないほど数多く見ることができる。第二点は、月経だけを堕獄の原因としている点である。第三点は、女性達を救うために、目連が血盆経を地獄に投じている点である。具体的には江戸時代以降の事例しか確認できてはいないが、血の池地獄に堕ちた女性を救うためとして、血の池に見立てた池や川に血盆経を投げ入れるということがあり、『太子伝』当時、すでにそれが行なわれていた可能性が想定できよう。第四点は、末尾に「観音」が登場している点である。44に図版として掲載される中国の血盆経にも「観音」の文字があり、このことについては、のちにまた述べたい。
この『太子伝』が引く血盆経記事が何に基づいているのかは、不明である(同文が東洋大学哲学堂文庫蔵『盂蘭盆経私記疏』<江戸前期から中期書写、増上寺旧蔵。
54、飯島奈海「東洋大学哲学堂文庫蔵『盂蘭盆経私記疏』解題・翻刻−血盆経信仰の一資 料として」、『三田国文』27、1999・3で翻刻されている>
に認められるので、『太子伝』の独自記事ではないようである)。第二点と第四点は本文の問題と関わることであり、あるいは第一点と第三点もまた、そうした本文を持つ血盆経伝本に基づいているのかもしれない。しかし、この二点に関しては、既報告の本文とはあまりにも違いがあるので、ひとまず“異伝”と考えておきたい。
“異伝”と呼びうる資料としては、このほか、舜貞(天台宗)が1599年に書写した『血盆経談義私』が掲げる次のようなものがある(53)。
「目連の母が無間地獄に堕ちる。仏の教えによって目連は施餓鬼を営み、母は無間地獄を逃れる。だが、月経と難産の時の血が流れて仏神を穢していたために、また血盆地獄に堕ちる。仏は血盆経を説き、母は都率天に生じる」。
この話の前提には、目連の母青提女が地獄に堕ちたとするパタ−ンの盂蘭盆経の所伝があることは間違いなく、「母の恩に報いるため」とする血盆経が盂蘭盆経と結びつくのは、至極当然のことといえよう。翻って言うならば、そもそも血盆経自体、盂蘭盆経の影響下に成立したと思われるのである(目連が血盆池地獄に赴いた理由を、母がそこに堕ちたからとしているものとしては、江戸時代の『盂蘭盆経私記疏』<54>、明治44年の立山の『血盆経略縁起』、昭和26年写『羽州雄勝郡賀波羅偈通融嶮之由来』<34・35>もあり、中国の伝承にも、同様の伝えがある<47>)。
また、1573年の年紀を持つ神奈川県金沢文庫蔵『血盆経縁起』(真言宗系、20の指摘による)は、釈迦が母摩耶夫人のために血盆経を説き、それによって母が成仏したと述べている。
女性の嫉妬、あるいは目連もしくは釈迦の母の救済と結びつけられたこうした異伝の源流がどこにあるにしても、何故それらが必要とされたのかということは、血盆経説教という場をぬきにしては考えられまい。
[熊野比丘尼の唱導活動]
しかし、血盆経信仰が広く民間に流布するようになったのは、中世末期に遊行宗教者がこの信仰に関与するようになってからのことと思われる。その代表者としては、熊野比丘尼が挙げられる。
熊野信仰を喧伝する熊野比丘尼の勧進活動は、「観心十界図(熊野観心十界図・曼荼羅)」「那智参詣曼荼羅」「熊野の本地絵巻」を文匣に納めて携帯し、これらの絵解きを行なってお札などを配るというものであった。
「観心十界図」は、十界の諸相が心から生じることを示した絵画で、その地獄の部分には、血の池・不産女地獄といった、女性に関わる地獄の様相が描かれている。絵解きの様子を知らしめる資料は、江戸時代のものしか見出されていないが、それらによれば彼女達は、女性を対象に「観心十界図」の絵解きを行なって血盆経信仰を勧め、血盆経を頒布したのであった。
その絵解きの語り口を彷彿とさせる資料としては、近松門左衛門作『主馬判官盛久』(1686年頃成立か)中の「びくに地ごくのゑとき」がある。そこでは血の池地獄に関し、「人間は諸仏が苦しんでお作りになるものなのに、堕胎をすれば、諸仏が声をあげてお嘆きになる。その涙は血の地獄となり、火焔となって身を焦がすのだ」と語られている。堕胎の罪が説かれているわけである。ただし、高田衛『女と蛇−表徴の江戸文学誌』(筑摩書房、1999・1)によれば、近松の時代、流産・早産・死産などと堕胎がどこまで区別されていたかは不明であるという。
熊野比丘尼が血盆経信仰に関与することになったのは、熊野参詣の途中で月経となったことを悲しんだ和泉式部が、
晴れやらぬ身のうき雲のたなびきて
月の障りとなるぞかなしき
という歌を詠み、それに対して熊野権現が、
もとよりも塵にまじはる神なれば
月の障りも何かくるしき
と返歌したと伝えられるように(『風雅和歌集』巻二十)、熊野が“女性の不浄”を厭わぬ聖地であったことと関係があろう。この歌を前提として考えるならば、熊野比丘尼が血盆経信仰を勧めた対象は、広義の堕胎を経験した女性だけではなく、すべての女性であったと思われる。
熊野比丘尼の参画を得、血盆経信仰は新たな展開の局面を迎えたといえよう。すなわち、女性である熊野比丘尼による女性のための唱導は、女性達がより積極的に血盆経信仰を受け入れる道を拓くことになったと思われるのである。
[血の池地獄の救済者]
次に、「観心十界図」の血の池地獄の描かれ方に注目しておきたい。 血の池で苦しむ女性の一部は、角のある蛇に変じた姿で描かれている。これは、既報告の血盆経本文には見出すことができない表現であるが、恐らくは、道成寺説話で知られるように、女性が男性への執着心や嫉妬の心から蛇に変ずるとする観念を踏まえているのであろう。
血の池の上方には、女性に一枚の紙−−血盆経であろう−−を手渡す如意輪観音が描かれている。先述したように、44所載の血盆経および『太子伝』には、「観音」の文字が見えている。観音が何故血盆経信仰と結びついたのかということは、中国における問題であり、その理由は定かではない。また、なぜ如意輪観音なのかも定かではない。
如意輪観音を救済者とする血の池地獄の絵画のうち、比較的年代のはっきりした早い時期の作例に、愛知県岡崎市満性寺(真宗高田派)所蔵の「血の池観音図」がある。これは、1558〜1591年頃に、京都六角堂(現在は単立、もと天台宗)の僧から、満性寺の住職に贈られたものである。
六角堂は、聖徳太子持仏と伝えられる如意輪観音像を本尊とする、聖徳太子信仰の拠点の一つである。一説には、聖徳太子は如意輪観音の化身であるともいわれる。六角堂で「血の池観音図」が作成され、また、先に掲げた『太子伝』に血盆経に関する記事が挿入されたのは、聖徳太子−如意輪観音−血盆経という脈絡によるかと思われる。
如意輪観音を血の池地獄の救済者とする信仰は、主に天台宗系の宗教者によって広められたものと思しい。そしてこの信仰は、特定の宗派内のことに留まらずに、絵画を通して広く各地に定着していったようである。日本各地の寺院に伝存する江戸時代の地獄絵などには、その寺院の宗派を問わず、血の池のほとりに座す如意輪観音の姿を数多く見出すことができる。また、江戸時代の女性の墓碑にも、その姿が刻まれている。
四、血盆経信仰の定着
[血盆経信仰霊場]
火山活動の活発な日本においては、硫黄が噴き出したり、熱湯が沸き立ったりする場所がある。そうしたところは、一般的に“地獄”と呼ばれている。つまり、本来観念的な世界であるはずの地獄が、この世に現出した場所と捉えられたのである。
その“地獄”のなかには、血のような赤い色の水を湛えた池が存在することがあり、それらは、“血の池地獄”と称された。たとえば、青森県恐山・富山県立山・大分県別府などに、血の池地獄は人の眼に見える形で存在したのである(なお、熊野比丘尼の本拠地の熊野三山には“地獄”はない)。また、実際には赤くはない池が、血の池地獄に見立てられる場合もあった。多くの場合、これらの“血の池地獄”には、地獄に堕ちた女性を救うためとして、血盆経が投入された。
血盆経信仰霊場とも言える場所は各地にあったが、立山と正泉寺が代表的である。
〔立山〕 立山は、古くから「山中に地獄あり」と知られた山岳信仰の霊場である(天台宗系)。『今昔物語集』(12世紀前半成立)には、女性の立山地獄への堕獄についての説話が収められており、立山地獄と女性の結びつきも、古くから見られる。その立山に血盆経信仰が及んだ時期ははっきりしないが、近世極初頭には、“血の池”のほとりの堂に血盆経を納めるという慣行が成立していた。立山の血盆経信仰は、あるいは熊野との関係によって、熊野からもたらされたのかもしれない。
立山の麓の芦峅寺と岩峅寺の二つの宗教集落では、木版刷りの血盆経が頒布されていた。登拝者達はこれを購入し、“血の池”に投じたり、女人禁制であるために登拝の叶わない女性達のために、土産として持ち帰ったりした。
山が雪に閉ざされ、登拝者が訪れなくなる秋から春にかけては、芦峅寺・岩峅寺の衆徒達は各地を巡って護符などを配り、「立山曼荼羅」を絵解いて聴衆を立山へと誘った。その際には、主に女性に対して血盆経の納経が勧められた。
芦峅寺側では、開山慈興上人の救母譚の形をとる、独自の血盆経縁起が作成された(『立山大縁起』巻二。廣瀬誠・高瀬保『越中立山古記録3・4』<桂書房、1992・8>所収)。それによれば、慈興は血の池地獄に堕した母を救うために、山中の“血の池”のほとりで血盆経会を営み、その功徳で母は「本尊」(同縁起の別本には、「如意輪観音」とある)と現じたという。
〔正泉寺〕 千葉県我孫子市正泉寺(曹洞宗)は、江戸時代中期頃から血盆経信仰の唱導活動を積極的に繰り広げた寺院である。この寺は、北条時頼(1227〜1263)の娘法性尼の開基と伝え、もとは法性寺と称したという。1397年または1417年に、法性尼の霊の告げによって住職が近くの手賀沼から血盆経を得、寺号を正泉寺と改めたとする、独自の血盆経縁起を伝えている(21〜23)。前掲『血盆経談義私』(53)には、正泉寺の前身、法性寺(宗派不明)の長老の母が血盆池に堕ち、母を救うために長老が血盆経を書写したという説話が載っており、すなわち、正泉寺が前身寺院の縁起を換骨奪胎して、法性尼を主人公とする新たな縁起を作ったことがわかる。
飯白和子氏(24)によると、正泉寺が血盆経信仰を喧伝しはじめたのは、明和年間に荒廃した寺院再興のためであった。この論考では、千葉県に見られる安産講、待道講が正泉寺の隠居寺、白泉寺によって広められた待道大権現の信仰によるものであることが明らかにされている。
正泉寺では、血盆経出現縁起や血盆経本文を多数版行しており、血盆経霊場として広く知られるようになっていった。なお、当寺では地蔵を血の池地獄の救済者とし、三幅の縁起絵を所蔵している。
[宗派から見る血盆経信仰]
管見の範囲では、中世期に血盆経信仰を受容していた宗派としては、前述の中世資料によれば、天台宗・臨済宗・浄土宗・真言宗が挙げられる。
また、江戸時代に血盆経を版行していた寺院の属する宗派としては、高野山真言宗・真言律宗・臨済宗妙心寺派・天台宗・浄土宗・曹洞宗が挙げられる。このうち曹洞宗は、正泉寺だけではなく、宗派をあげて血盆経信仰を喧伝していたと見られる。
曹洞宗における血盆経信仰の早い時期の資料としては、石川力山氏(『禅宗相伝資料の研究』上・下、法蔵館、2001・5)が紹介している、17世紀初頭成立の血盆経に関わる切紙がある。曹洞宗では、昭和56年まで授戒会の折に女性に対して血盆経が授与されていた(25による)。
浄土宗では、曹洞宗のように「宗派あげて」とまで言えるかどうかはわからないが、比較的積極的に唱導を行なっていたようである。
浄土宗僧、松誉巌的は、『血盆経和解』(1713年刊)という血盆経注釈書を撰述している(内容については16を参照されたい)。また、本書ならびに葬儀等の儀礼の執行方法を記した『浄家諸廻向宝鑑』(龍山必夢撰、1698年刊)や『浄土無縁引導集』(松誉巌的撰、1696年刊)には、流れ灌頂と血盆経信仰を絡めた記述が認められる。
[流れ灌頂]
流れ灌頂とは、産死者や水死者、無縁の死者を弔うために行なわれる儀礼である。『浄家諸廻向宝鑑』は、7本で一組となった卒塔婆7流に記す文言を図示したのち(この図は、藤井正雄編『仏教儀礼辞典』、東京堂出版、1977・7、に収載されている)、巻2−51「流灌頂功徳略説」として、
夫流灌頂者、建立率塔婆貫流樒華。呑触此水鱗魚、若無縁死骸白骨等、忽成成仏縁。 或地獄猛火転得清涼徳、餓鬼貪心火消得飲食自在、畜生愚痴得大慈悲心水生智慧。余 趣得悉益。寔吊亡霊一人万類得解脱。故此勝業不可不勉也。又由血盆経説女人月水汚 水神、又汲其流供諸尊、此大罪故婦人堕血盆池矣。所詮此法事転女人垢穢、速疾仏果 之作善也。但、灌頂本拠不正云云。
と記している。この儀礼は本来水中の生き物を済度するために行なわれたものと思われるが、そこから水死者済度に転じ、さらに産死者と結びついた理由は定かでない。佐々木孝正氏は、『仏教民俗史の研究』(佐々木孝正著、佐々木孝正先生著作刊行会編、名著出版、1987・3)収載の「近江の流れ灌頂」「流灌頂と民俗」において、密教儀礼の六字河臨法(『阿娑縛抄』の同儀礼執行目的に、呪詛反逆・病事とともに「為産婦修之」とある)が先行儀礼としてあったのではないかとしている。
『浄家諸廻向宝鑑』『血盆経和解』の時点ですでに、この儀礼の原拠は不明であったようである。だが、原拠は不明でありながらも、江戸時代以降、寺院の儀礼として、または習俗として、主に産死者、あるいは女性死者全般のために広く行なわれた。その執行方法にはさまざまなやり方があるが、小川に卒塔婆、四本竹を立てて赤い布をつけ、道行く人がそれに水を掛けるなどした。赤い色があせると、血の池地獄に堕ちた死者が救われるという。水を掛ける際に、「産で死んだら血の池地獄、あげておくれよ水せがき」などの唄を歌うこともあった。
なお、正泉寺では、1950年代頃までは、お産で死んだ女性や水子のために、寺の近くの川に祭壇を築いて“川施餓鬼”(流れ灌頂)を営み、血盆経護符を川に流したという。
[血盆経護符の携帯]
立山や正泉寺をはじめ、血盆経信仰を受容した寺院は、血盆経護符を版行した。その内符は、血盆経本文であったり、陀羅尼や願文を抜き出したものであったり、さまざまな形がある。
血盆経護符を携帯していれば、月経中でも不浄を他に及ぼさず、死後の往生・成仏が約束されるとされ、それを持っていた女性が亡くなると、お棺に納められたりもした。また、正泉寺周辺では、血盆経護符が安産のお守りとしても用いられ、妊娠した女性は、腹帯の間に護符をはさんだという。
[女人講]
一般の女性を中心とする信仰的な集まりである女人講のなかには、血盆経信仰と密接なつながりを持つものがあった。その名称や行ない方はさまざまで、正泉寺の場合は「地蔵講」といい、第二次世界大戦の前までは、毎月24日に集まり、「水子供養和讃」や次のような「血盆経和讃」を唱えていた。
帰命頂礼血ぼん経 女人のあく業深ゆへ 御説玉ひし慈悲海
渡る苦界のありさまは 月に七日の月水と 産する時の大あく血
神や仏を汚すゆへ 自と罸を受くるなり 又其悪血が地に触て
つもりて池となり 深が四万由旬なり 広も四万由旬なり
八万由旬の血の池は みづから作地獄ゆへ 一度女人と生れては
貴せん上下の隔なく 皆この地獄に堕なり 扨この地獄の有さまは
糸あみ張て鬼どもが わたれ/\と責かける 渡はならずその池に
髪は浮草身は沈み 下へ沈ば黒がねの 觜大きい虫どもが
身にはせきなく喰付て 皮を破りて肉をくひ すみや岸へと近よれば
獄卒どもが追いだす 向ふの岸を見わたせば 鬼どもそろふて待いたる
哀女人のかなしさは 呵嘖せられて暇もなし 寄くる波の音きけば
山も崩るゝばかりなり 岸に立たる顔見れば 娑婆にて化粧し黒髪も
色も変て血に染り 痩おとろへて哀なり 食を好ば日に三度
血の丸かせを与へけり 水を好ば血をのませ 娑婆にて作し悪業ぞ
呑や/\と責かける 其時女人のなく声は 百せん万の雷の
音よりも又恐ろしく 娑婆にて作し悪業が 思ひやられてかなしけり
是はなにゆへ子を持て かゝる苦患を受るなり 母親の恩徳しる人は
菩提供養をするならば 抜苦与楽は疑はじ 南無や女人の成仏経
女に生るゝその人は 血盆経をどく誦して 人にも勧めわれもまた
ともに後生を願ひなば 先だつ母おや姉いもと あまたの女人ももろともに
血の池地獄の苦をのがれ 地蔵菩薩の手引にて 極楽浄土に往生し
常に無上の法をきく 諸仏菩薩を供養せん 南無や女人の成仏経」
(『延命地蔵菩薩経 付仏説大蔵血盆経 血盆経和讃』、正泉寺、1934、による)
北関東に多くあった「十九夜講」は、安産の神、十九夜様を主尊とし、数ヶ月に一度、
19日に集まって、如意輪観音による血の池地獄からの救済を謳う「十九夜念仏和讃」
を唱えるというものであった。
「十九夜様お礼(洗濯場)」(栃木県佐野市の十九夜講のもの)
帰命頂来十九夜の 御堂の前を眺むれば 老若男女が集りて
おいさめ申す念仏は 家内安全身の祈祷 嫁も娘も安産に
守らせ給え観世音 一には大日如来様 二には日月薬師様
三には三世の諸仏様 四には信濃の善光寺 五には五池の如来様
六には六道の地蔵様 七には七尊観世音 八には八幡大菩薩
九にはくりから不動様 十には当所の神仏 それを念ずる友がらは
十悪大難のがるべし 死して冥土に行く時は 八万余仭の血の池を
かすまな池と見て通る 女人救はんその為に 血の池地獄へお立ち会い
血の池のがるお念仏は 十九夜様の御本尊 火水あらためこうむりて
さてまたごんぎをとり清め さてあさましや月のやく
十三十四の頃よりも
四十二三が身とめなり 月には七日のやくなれば 年には八十四日ある
今朝まですみしが早にごり 濁ごりし我が身をせせぐには ぼんちの下の井の水で
井の水くんですすぐべし
すくいてこぼすも恐ろしや こぼせば大地が八つにわれ
ほのぼの煙も立ち上り 山へこぼせば山の神
地の神荒神けがすなり
川ですすげば川下の 水神様も汚すなり
池ですすげば池奈落
両え浄土を汚すなり 天日でほすも恐ろしや
日輪様をけがすなり
夜干にほせば星明神 月輪様を汚すなり
まだその外におそろしや
ちりに交りて火にくばり 普賢ぼさつや釜の神
三世の諸仏を汚すなり
南無阿弥陀仏のお念仏を 三べん申して桑の木の
桑の根本えこぼすなり その血のとがも恐ろしや 夜昼血の波わきかえる
ひろさが八万余仭なり
深さが八万余仭なり 中へ落ちる罪人が
池のそこへおし込まる
上へうがみて空見れば 上にはれん上の綱をはり
あらあら恐し鬼達が
黒がねちょうしを手に持ちて 我らのしゃばのやく水が のみほせかいほせかしゃくする
如意輪様があらわれて さほど罪もあるまいに 我らがしゃばにありし時
遊びにもししお念仏
ほうらい山の山となり ほうらい山の山あれて
ひらきし蓮華が五本立ち つぼみし蓮華が四本立ち
九品浄土へまえるには
開きしれんげを笠にして つぼみしれんげを杖につき
法け経だら経みのに来て
行かぬかなわぬ道なれば 雨の降る日も風の夜も
昼夜にさべつさらになし
ついたち九日十九日
二十九日のお念仏で 八万余仭の血の池を
申しうめたい南無あみだ 念仏からくる唐糸は 極楽浄土のこの門を
銭でも金でもあかばこそ
念仏六字でさらとあけ 極楽浄土のまん中え
黄金の御堂が三つたち 上なる御堂をみたまえば
釈迦とだるまのお立ちあい
下なる御堂を拝むれば 父と母との住む浄土
極楽浄土へこぎ給へ
申し浮みし南無あみだ
(坂本要「民間念仏和讃と安産祈願−−利根川流域について」、藤井正雄編『浄土宗
の諸問題』、雄山閣、1978、による)
十九夜様の姿は十九夜塔という石造物に刻まれているが、明らかに二臂の如意輪観音で
ある(女性の墓碑に刻まれるものと同様)。これは、血盆経信仰から転じた信仰である。
五、結び
以上、すべての事象について詳述することはできなかったが、日本における血盆経信仰の様相について述べてきた。
一般的に、古い時代の日本においては、女性の血のケガレは問題視されていなかったといわれる。それが、陰陽道の影響によって次第にケガレ意識が拡大し、血も忌まれるようになっていった。また、その一方には仏教の女性劣機観もあった。血盆経信仰は、両者のうえに塗り重ねられる形で、日本の中に浸透していったのである。
かつて血盆経を版行していた各寺院は、当然のことながら、現在はその頒布をほぼやめている。また流れ灌頂も、習俗としてはまったく行なわれていない。女人講もすたれつつある。一般的に山岳霊場は女人禁制であったが、わずかなところを除いて、その禁制も解かれた。
女性差別そのものである血盆経信仰は、今は忘れ去られつつある。それが歓迎すべきことであるのは、言うまでもない。だが、いまだ民間には、女性をケガレた存在とする観念が残っており、日本の女性観・ケガレ観の変遷を考えるときには、この信仰のことを念頭におく必要があろう。
付記 小稿には図版を掲げることができなかったので、経本文や絵画資料等については、52、牧野和夫・高達奈緒美「血盆経の受容と展開」、岡野治子編『女と男の時空【日本女性史再考】3女と男の乱−中世』、藤原書店、1996・3(岡野治子編『女と男の時空【日本女性史再考】5女と男の乱−中世・上』、藤原セレクション、藤原書店、2000・10)
を参照されたい。