バーコヴィッチを越えて

佐藤光重
(慶應義塾大学・非)

「ピューリタニズムを中心テーマに据えつつ、ここまで多様な議論の可能性があることを提示した研究書は今まで出版されたことはないのではないか」と編者が自負する通 り、『アメリカの嘆き』は「エレミアの嘆き」のイメージとはうらはらに、わが国におけるアメリカ文学研究の明るい未来を予見させる。1978年にAmerican Jeremiadで、エレミアの嘆きがアメリカにおいて特有のレトリックへと発展したことを唱えたSacvan Bercovitchは、すでに73年のThe Puritan Origins of the American Selfで、ピューリタンの起源が複数であることを示し、93年のThe Rites of Assentではますます広汎な話題へとピューリタン起源のテーマを発展させた。斎藤勇『革命史研究』(1992)の指摘によれば、ピューリタンに先立ち上陸したピルグリムには、多種多様な構成員が含まれており、メイフラワー誓約とはすなわち多元的社会を建設するための契約であったという。まもなく上陸したピューリタンにも同様のことが言えるのではなかろうか――このような展望を抱かせるほど多種多様な論考が花開く『アメリカの嘆き』は、秋山健氏の上智大学退官記念として友人からの寄稿と、同志社および上智大学で氏の薫陶を受けた研究者による計12本の論文を収める裾野の広い研究書である。編者によると、寄せられた論文は1)ピューリタニズムにアメリカ国家のアイデンティティーを求める、2)ピューリタニズムからの解放に自由と平等の国アメリカの成立を見る、3)ピューリタニズムをアメリカの歴史の中で評価する、という具合に大きく三つに分かれるという。そこで、同書に収められた論文をこれらの分類にしたがって紹介する。

編集者の序によると「ピューリタニズムにアメリカ国家のアイデンティティーを求める」論文は6本である。まず、難波雅紀(巻末「ニューイングランド・ピューリタニズム研究動向」も担当)の「荒野から沃野へ――トマス・シェパードとその周辺」では、回心体験(conversion experience)を「聖徒になりすます物語」として捉えなおす。本論は「告白の言葉から回心体験の真偽を識別 することは本質的に不可能」との見方にもとづき、ピューリタン社会の構成員になるうえで不可欠であった回心体験の過程がシェパードの教義によっていかに定式化されたかをたどるのみならず、すでにピューリタンは回心体験の告白をひとつの物語(narrative)として意識していた可能性をも示唆する。キリスト教神学にもとづく重厚なるホーソーン論『ホーソーン研究――時間と空間と終末論的創造力』(1996)でも知られる青山義孝の「ホーソーンとキリスト教――『緋文字』における苦行と悔い改め」では、「人間のなすよきわざは、人間の力から出ているのではなく、キリストの霊の恩恵」であるとする「プロテスタント思想の基本」を軸に、作品における苦行、善行、悔い改め、そして恩恵の意味を『ウェストミンスター信仰告白』(1643)や『ウェストミンスター大教理問答』(1648)といったピューリタン信仰の根本原理から解明する丹念でひたむきな論証であり、読者の心を打つ。さらにピューリタニズムの伝統に関して作間和子「牧師の娘の苦悩――ストウとピューリタニズムの変容」では、父、兄弟ともに牧師であったストウとカルヴィニズムとの相克をあつかう。周知のとおりJane Tompkins Sensational Designs: The Cultural Works of American Fiction, 1790-1860 (1985)、またわが国でも佐藤宏子『アメリカの家庭小説――十九世紀の女性作家たち』(1987)によって文学史におけるストウの新しい位 置付けがなされて久しいが、南北戦争以前のニュー・イングランドを振り返った地方色あふれる作品『オールドタウンの人々』(1869)を考えるにはやはりエドワーズ以来のカルヴィニズムの文脈を無視するわけにはいかない。本論はカルヴィニズムに対してストウが抱く「アンビヴァレント」な態度を抽出することで、作品がいかにピューリタニズムの変容を見事に捉えていたかを示す。牧師による回心のみならず、「女性の持つ贖罪の力」救済の力を説いたストウほど「ピューリタニズムを神学として、また生活の一部として深く多面 的に捉え、その変容をあぶり出した作家はいない」とする結論は印象深い。

ネイチャー・ライティングの分野からピューリタニズムを論じる伊藤詔子「ソローのウィルダネスの詩学とピューリタニズム」とバートン・L・セント=アーマンド(Barton L. St. Armand)「書物としての自然――博物学的予型論」は、ともに膨大な知識と厳格な訓古注釈に支えられた、展望あふれる奥行きの深い論考である。ソローは原生自然が与える霊性をも「ウィルダネス」と呼んでいたことから、伊藤はウィルダネスをあえて西部や荒野と区別 する。『よみがえるソロー――ネイチャーライティングとアメリカ社会』(1998)でソロー文学に見られる予型論に新機軸の解釈を示した著者は、さらに本論でソローのウィルダネスの思想が、「複雑なプロセスを経て意味の分化が認識され概念形成が行われていった」様子を徹底検証する。さらにセント=アーマンドは、西洋の博物学における「書物としての自然」という思想を起点にして、博物学と予型論的発想を軸にアメリカ文学史の再構築を企てる。訳注にあるとおり、本論文集ではコットン・マザーやジョナサン・エドワーズなど代表的なピューリタンを大きく扱うことができなかったが、本論は間違いなくその欠如を補ってあまりある壮大な試論である。

大胆かつ野心的にピューリタン・レトリックを現代アメリカの文脈で再解釈するのは巽孝之「ニューヨークの魔女たち――『ヤング・バーグードーフ・グッドマン・ブラウン』に見るアヴァン・ポップ・ピューリタニズム」である。Mark Leynerが1995年に発表した同作品をもとに、ニューヨークの高級デパートBergdorf GoodmanとホーソーンのYoung Goodman Brown、約束の地(promised land)と高度情報兵器「プロミス」、といったキーワードを交錯させ、コットン・マザー以来ピューリタンが盛んに用いたインディアン排斥のレトリックが、セイラムの魔女狩りにおける生霊証言を経て反ユダヤ的言説へと姿を変遷する様を追ってゆく本論の視野は広く、筆致もきわめて刺激的である。

ついで「ピューリタニズムからの解放に自由と平等の国アメリカの成立を見る」論文には次の4本が挙がっている。最初に、林以知郎「戦略としての『ピューリタン嫌い』−−クーパーの『ウィシュ・トン・ウィシュの嘆き人』」では、クーパーに見られる「ニューイングランド嫌い」の情感を、「メタ・フォークロアとも言える語りの戦略」としてとらえ、さらにはピューリタン植民地の「閉鎖同質的共同体」を相対化する「異人」の眼差しとして、インディアン捕囚譚のモチーフが機能していることを鮮やかに論証してゆく。二つの文化を仲介するナッティ・バンポを欠く点に同作品の限界を見極める一方で、本論はDaniel Hoffman, Philip Gould, Michelle Burnhamらの批評を効果的に応用しつつ、堅実な論法で独自の解釈を読者に問う。大塚寿郎「もう一つの神との格闘――メルヴィルと市民宗教」は、Lawrence Thompsonが提唱した、メルヴィルにおける「神との格闘」をめぐる議論を再評価するものである。建国の「父祖」らが神話化した国家理念「市民宗教(civil religion)」を、あくまでレトリックとしてメルヴィルが認識していたことを示すべく、メルヴィルの主要な長編をいくつも挙げながら具体的に論じている。中川優子「ニューイングランド的良心と女性支配――ヘンリー・ジェイムズが『使者たち』に描いたアメリカ」では、道徳的価値にのみかたよる抑圧的な社会のあり方をピューリタニズムの負の遺産として捉え、『使者たち』の主人公ストレイザーに「道徳的感性と審美的感性の両方をそなえた新しい生き方」を読み取る。宮脇俊文「ピューリタニズムからマルティカルチュラリズムへ――『グレート・ギャツビー』における二つの世界」では、イースト・エッグ側の住人たちの「同質性」を守ろうとする姿勢に東部社会における支配層の排他性を読み取り、さらにこの異文化に対する「垣根」の起源をピューリタンに求めてから、後半部分では、ギャツビーに共感をよせるニックに、排他的なアメリカ社会への批判精神を見出し、マルティカルチュラルな社会を志向するニックを描き出す。

ピューリタニズムをアメリカ史の中でいかに評価するのかを問う論文は2本で、高野一良「白き死の仮面 ――キャサリン・セジウィックの描いた白い歴史絵巻」は、Nina BaymやLawrence Buellの研究をふまえながら、独立革命期から19世紀前半にかけて栄えた歴史物語についての問題点を指摘する。19世紀のニューイングランドの作家が歴史物語を量 産することで、現代にまで至る白人文化のヘゲモニーが形成されたことを本論は強調し、セジウィックの作品にも、白人とインディアンとの和解が演出されているように見えながら、そのじつ物語を支配するのは「白の論理」であることを裏付けてゆく。アメリカ史におけるピューリタニズムの根本問題についての論考、八木敏雄「ブラッドフォードの『歴史』に見るインディアン消去法――「ピーコット戦争」まで」では、『アメリカの文学』 (1983) や『アメリカンゴシックの水脈』 (1992)でも一貫して力説してきた八木理論を確認することができる。インディアンを無意識の領域に葬り、かれらの土地を荒野と見なすのを八木は「インディアン消去法」と呼び、とりわけ『歴史』1620年11月11日の記述に着目し、「文化人類学的興味の欠如」がこのテクストを成立させているとする批判的解釈はいまもなお新鮮であり、痛烈な印象を与える。

以上をまとめると本書がいかに広い領域をカヴァーしたものであるかが明らかとなろう。主たる対象作品だけでもピューリタニズムを争点にロマンティシズム、リアリズム、ロストジェネレージョン、ポストコロニアリズム、マルティカルチュラリズムからネイチャー・ライティングにいたる広汎な分野におよび、関連して扱われた話題すべてを含めるとアメリカ文学のほぼ全時代区分に相当する内容を本書で渉猟することができるのである。秋山氏の学統は今後もさらなる継承発展を遂げることは間違いあるまい。