虫眼鏡を探せ

波戸岡景太
(慶應義塾大学大学院)

 やわらかなピンチョン論である。

 本書はまず、従来のピンチョン論を簡潔に解説する。そして、これが本邦初のピンチョン論であることに対する自覚は、短編を除くすべてのピンチョン作品の概要を各章の冒頭に掲げるといったきめ細かな配慮となって現れている。もちろん、ピンチョン作品のプロットを粗筋化してしまうこと自体が、すでにその作品世界の魅力を割り引かざるをえないことは充分承知のうえに違いない。

  また本書は、読者層をなるべく限定してしまわぬために、著者独自のキーワードやキーフレーズに従って、まるでコラムのようなコメントを延々と続けていくといった手法をとる。このことは、ともすると本書が、欧米ですでに出版されている「コンパニオン」の類の補足・更新であるかのようにも見える。だがしかし、そこに仕込まれた作品論は、従来の「解説」とはまったく違う。それらは、断片的な語り口でありながら章ごとに大きなつながりを持ち、それゆえにある種の「やわらかさ」を得ているのである。

 そこでは決して、穿った読みはなされない。そうすることが不毛であるとは言わないまでも、とりあえず本書の対象とする読者に、そのような批評家の饒舌は不必要であるとの判断があったのだろう。彼らは「電子顕微鏡」よりも「虫眼鏡がほしい」はずだと主張する著者は、自らがピンチョンに惹かれた理由を、「私にとっての<文学の原要素>があった」からだと述懐する。そして著者にとっての<文学の原要素>とは、「言葉遊びとまだ解かれていない謎」であった。すなわち、本書にちりばめられた作品論は、その動機がいずれも「謎解き」にあるのだ。

 「謎解き」はある種の「解説」に見られる硬直状態を回避し、答えよりむしろそのプロセスこそを楽しむといった「やわらかさ」を生み出す。だからこそ、「謎解き」に動機付けられた作品論は魅力的だ。しかも本書は、それが単発に終わるのではなく、ゆったりと全ページに渡っているがために、一度は簡略化されたピンチョン像もやがてむくむくと読者の頭の中で、その本当のすごさを発揮し始める。

  著者の語り口もまた、本書の「やわらかさ」を特徴づけている。固有名詞の乱舞(なによりもピンチョン作品そのものがそうだ)といった事態を回避しながら、まずは読みやすい日本語に翻訳された多くの引用と、作品自体を支える理数系概念の嫌味のない説明がなされる。その後に、複数の作品を横断するような独自の読みが提示されるのだが、おもしろいことにそれは、まるで読者へのささやかな提案のような形をとる。このようなシンプルかつ控え目な語りに支えられた小さな作品論たちは、けれどもやがて、それぞれが「やわらか」なリンクをなしていくことで、ピンチョン作品の中に、衒学趣味とは確実に違った文学の力があることを読者に発見させるのである。

 つまり、ピンチョン文学に散乱した無数のエピソードに対し、それこそ決め付けの少ない「やわらかさ」に満ちた解説を施していくことを選んだ本書は、批評にもとめられるはずの価値の確定といった作業を果 てしなく遅延させているよう見えて、その実、ピンチョン文学の内包する無数の可能性をこの一冊でまるごと提示しようという野心を垣間見せている。このことは、作家の名前そのものをタイトルに掲げるといった行為にも現れている。そしてサブタイトルの「宇宙」という言葉はきっと、ピンチョンの作品世界を指し示しているのと同時に、トマス・ピンチョンという作家の内面 世界をも意味しているに違いない

 事実、本書に描かれたピンチョン像を、著者は「まぎれもないピンチョン」と表現する。無論、これこそがまぎれもなくこの人なのです、と証明することなど誰にもできはしないだろう。が、作家なる存在が特異な点は、ほとんどの読者はその作品を読むことしか出来ないのにもかかわらず、彼らが自らの心の中にうち立てた作家像には時として、「まぎれもない」という修辞を付すことが許されるということだ。

 ところが、ピンチョンという作家は、それをなかなか許さなかった。さらに言うならば、ピンチョンが圧倒的評価を得た60年代から70年代という時代は、むしろ作家像の確定をなしえないが故に、彼を文学界におけるある種のスーパースターとして迎えたようなふしがある。そして、ピンチョンがそのプラベートを一切あかそうとしないといった事実こそは、彼の神秘性を維持し続けようとする批評家その他の文学関係者によって繰り返し言及され、神話化されてきた。

 一方、「…とはいえ、(ピンチョン自身の伝記的事実には)興味深い情報がいくつもある」と、それこそ愚直にもピンチョンの「横顔」の説明から第1章を始める本書は、その「章」が実は、前置きの「はじめに」と同じくらいの短さであるという事態をいささかも気にしているふうではない。他の章との比較においても、これはあきらかにバランスを欠いている。まるで、このような本書の構成自体がすでに、神格化されたかつてのピンチョン像へのアンチを示しているかのようだ。

 日本におけるピンチョン研究は今、新たな段階に入ろうとしている。何よりも、もうすぐピンチョン作品の全てが日本語で読めるようになろうとしている。けれども、日本語を母語とするピンチョン読者の候補生たちは今、書店や図書館や古本屋で手に入れた翻訳本をぱらぱらとめくった後、ひょっとしたら相変わらずのピンチョンの過剰さ・複雑さに茫然としているかもしれない。そんなとき、帰りがけに買っておいた(もしくはネットで注文した)本書『トマス・ピンチョン』を開いた読者は、こう勇気づけられる---あなたにとっての「まぎれもない」ピンチョンを探せばいい。虫眼鏡はここにある。