「日本的空間」のリアリティとは?

宮尾大輔
(映画史家)

 前回のこの書評ページで、エチエンヌ・バラール著『オタク・ジャポニカ--仮想現実人間の誕生』について、作家・向山貴彦氏が、フランス人ジャーナリストのバラールが外部から日本の「オタク」あるいは「マニア」を観察するという構図を、「医者」と「患者」の関係になぞらえ、絶妙な書評をされていた。その観点からすると、斉藤環著『戦闘美少女の精神分析』は、バラールの著作と対置して読まれるべき書物である。というのも、本著は、漫画家/批評家・竹熊健太郎氏の表現を借りれば、「精神医学から見た初のオタク論」だからだ(因に、バラールは、向山氏が指摘するように、「オタク」と「マニア」をやや混同して議論を進めているきらいがあるが、対して斉藤は、ベンヤミンふうの比喩を用いて、「実体=オリジナル」のアウラに魅了されるのがマニア、「虚構=複製物」のアウラをみずから仮構してみせるのがおたく、と明らかに別 物として区別している)。

 ただし、斉藤は、バラールが依拠する「外」と「内」との区別、つまり、いくら好意的に日本人の持つクリエイティヴィティをほめたたえようとも、日本の外部から「オタク文化」や他者としての日本人を観察するという、オリエンタリズムや日本特殊論に容易に陥りがちな二元論には、意識的に距離を置こうとしている。ラカンによる三界区分(体験することが不可能な領域の「現実界」、言語システムとほぼ同義の「象徴界」、そしてイメージや表象として「意味」や「体験」が可能となる領域の「想像界」)の普遍性を想定することで精神分析は成立する、という考え方に、斉藤は立脚する。そして斉藤は、われわれ(もちろん医者を含む)もおたくも等しく「神経症者」であるとし、「現実界」はもちろん、「象徴界」も完全に意識的には体験できないとして、両者に構造的な差異を認めない。また、本書を通 じて斉藤が絶えず読者に注意を促すのは、戦闘する美少女というイコンが、たとえ数量 的には他に類を見ないもので、その意味で日本において特異な発達をとげた領域であると認めるとしても、日本のオリジナルでも独自な分野でもないということである。そして、斉藤は、あるメディア環境が整い、そこにセクシュアリティの問題が関わってくれば、日本以外の場所でも戦闘美少女は出現し得ると主張するのだ。90年代末に米国クリフハンガー・コミックスから発売された『バトルチェイサー』や『デンジャーガール』などは、その例として斉藤が指摘する作品である。

 しかしながら、哲学者・東浩紀氏のHP内での討論で斉藤自身が危惧しているように、日本特殊論という「ナルシシズム」を回避するのはことのほか難しい。斉藤ほど、リダクティヴな二元論に陥ることの危険性に意識的な書き手であっても、戦闘美少女というイコンを生み出した「環境の特殊性」、すなわちおたくという「特殊な共同体の需要」によって主に成立してきた漫画・アニメという「メディア空間」の「特殊性」を分析する際に、「日本的空間」と「西欧的空間」という二元論的な概念を持ち出さざるを得ないのだ。

 本書第6章における斉藤の議論によると、「日本的空間」とは「虚構と現実という対比が十分に機能していない」空間である。つまり、「日本的空間においては、虚構それ自体の自立したリアリティが認められ」、一方「西欧的空間では現実が必ず優位 におかれ、虚構空間はその優位性を侵してはならない」。では、「日本的空間」の「虚構それ自体の自立したリアリティ」がどのようなものかというと、一つの例として斉藤が挙げるのは、「無時間性」あるいは「カイロス時間(人間的時間)」である。斉藤によれば、「漫画・アニメ的空間」/「日本的空間」においては、時間は読者・観客の主観にしたがって伸縮する。一方、現実が優位 におかれる「西欧的空間」においては、映画やアメ・コミに典型的に見られるように、「クロノス時間(物理的時間)」を重視し、情緒的な引き延ばしや誇張は最小限に留められる。しかし、例えば、映画は必ずしも「クロノス時間」を重視しているだろうか。D・W・グリフィスの「ラスト・ミニッツ・レスキュー」に典型的な並行モンタージュは、あるいはジョン・ウー作品で有名なスローモーションは、ある意味で主観的に引き延ばされた時間ではなかろうか(ウーは「西欧」出身ではないが)。また、フィルム・ノワールで多用されるフラッシュバックはどうだろうか。しかも、映画は、厳然たる事実として、毎秒24回の光の明滅によって成立している。本来的には、映画における時間は、毎秒24回、静止した24枚の画によって分断されているのだ。映画がクロノス時間を体現しているというのは、実は眼の錯覚に過ぎないのではなかろうか。

 「無時間性」だけが、「日本的空間」の特徴として斉藤が挙げる唯一の例ではないし、やや結論を急ぐきらいがあるとはいえ斉藤の「無時間性」を巡る議論は正しいと言えるのであるから、この一例だけから「日本的空間」と「西欧的空間」という彼の概念の有効性を疑うことはもちろんできない。しかし、「漫画・アニメ空間」と「日本的空間」とが、あまり明確な区別 が与えられないまま(「日本的空間」は「漫画・アニメの場所をも包摂する」)併置されているという印象が残る。「漫画・アニメ空間」では「虚構と現実という対比が十分に機能していない」かもしれないが、それがなぜ「日本的空間」と名付けられ、「西欧的空間」と名付けられるメディア環境と対比されるのか。もちろん、「的」という語が用いられていることから明らかなように、斉藤の議論において「日本的空間」と地理的な意味の日本は同じものではないが。(例えば米国で製作された映画『マトリックス』などは、むしろ「日本的空間」に属するであろう)。では、その「的区間」の前に付された「日本」とは、そして「西欧」とは何を意味しているのか。更なる議論を待ちたい。

 さて、ニューヨークでサイレント映画を専門として研究している私に、なぜこの本を書評するお話をいただいたか考えると、おそらくその理由は、数年前に私も『エヴァ』に「はまり」、「綾波、綾波」と騒いでいたばかりでなく、『エヴァ』を巡る色彩 論、ファミリー・メロドラマ論をモントリオールの学会で発表させていただいたことを、編集長が耳にされたからであろうと類推するのだが、映画史を研究する者としては、本著は二つの点で特に興味深かった。一つは、本著が精神分析医による漫画・アニメのみならず映画にも言及する視覚芸術論であること。いま一つは、本著がユニークなリアリズム論であることである。

 精神分析とリアリズム論は、共に連関しあいながら映画研究の分野において重要な位 置を占めて来た。まず、精神分析と映画は、共に19世紀末に誕生して以来(フロイトは映画元年ともいうべき1895年に最初の重要な著作『ヒステリー研究』を完成)並行史を辿る。1912年の『ロシュ・ドゥ・カドールの謎』以来、アルフレッド・ヒッチコック監督『白い恐怖』やジョン・ヒューストン監督『フロイド、隠された欲望』、ロバート・レッドフォード監督『普通 の人々』など数多くの「精神分析学的フィルム」が製作されてきただけでなく、1970年代に映画学がアカデミズムのディシプリンとして確立される時期には、フランスのクリスチャン・メッツやレイモン・ベルールらが、英米では『スクリーン』誌を中心にスティーヴン・ヒースやジャクリーン・ローズらが映画研究に精神分析理論を導入した。その後ローラ・マルヴィを端緒として、フェミニズム批評家たちが、父系社会の構造を明らかにするために精神分析理論を用いるようになった。しかし、哲学・メディア論研究者・和田伸一郎も指摘するように、映画研究で用いられる「精神分析」は、フロイトーラカンが構築した巨大な理論体系である精神分析学の中の非常に限定された箇所、例えばごく初期のラカン理論に限られてきた。アンソロジー、Endless Night: Cinema and Psychoanalysis, Parallel Histories (Berkeley: U of California P, 1999) の編者ジャネット・バーグストロームも指摘するように、並行史が存在するにも関わらず、精神分析医から映画へのアプローチはこれまでほとんどなく、映画や映画学者の側からの精神分析理論の一方的なエクスプロイテーションがあるだけであった。その意味で、精神分析医である斉藤による本著は、映画ではなくアニメを主たる題材としてはいるものの、映画学者待望の一冊である。(アニメの発祥を下川凹天『芋川椋三玄関番の巻』(1917年)とするなら、アニメも精神分析との並行史が存在すると言えるかもしれないが。)その辺りの精神分析的映画研究の流れについては斉藤もおそらく意識的であり、だからこそ、斉藤美奈子の『紅一点論』がそうであるような、戦闘美少女というイコンに小児愛、フェティシズム、サディズム、マゾヒズムなどを読み解こうとする、フェミニズム的精神分析にはあまり関心を持つことができないと告白する。

 本著が目指すのは、戦闘美少女を生み出した土壌である、便宜的に「日本的空間」と呼ぶメディア環境に存在するおたく、そしておたくと構造上は区別 できないと斉藤がみなす、われわれ(イコール日本人、ではない)の精神分析である。ここで、斉藤のリアリズム論が登場する。映画的リアリズムを巡る現在まで続く議論の中で、精神分析理論を援用したメッツやジャン=ルイ・ボードリーといった映画理論家たちのリアリズム論は、現実の模倣といった映画における表象ではなく、映画の観客の欲望に焦点を合わせる。本当らしく見えるスクリーン上のイメージとファンタジーの世界へと観客を誘いやすい映画館の中という状況とが、夢のような状態に観客を陥らせ、幻影をリアルなものと知覚させるというのである。一方、アンドレ・バザン、ジークフリート・クラカウアー、ピエル=パオロ・パゾリーニら、記号学的な映画研究者たちのリアリズム論では、映画の本質的な客観性、写 真によって現実は再生産されると主張され、その意味において映画は、「リアリティの芸術」と見なされた。

 これに対して斉藤のリアリズム論は、現実と虚構という対立の図式を放棄することに立脚している。斉藤は、「日本的空間」においては、「虚構としての現実」が複数存在し、日常的現実もそのうちの一つにすぎないと述べる。斉藤によれば、虚構は自前で、独自のリアリティ空間をその周囲に拓くことができるが、「日本的空間」に存在するわれわれがそれらの虚構にリアリティを感じることができるのは、そこに「セクシュアリティの磁場」が存在する場合に限られる。というのも、性欲こそが虚構化に最後まで抵抗するものだからだ。斉藤によれば、戦闘美少女は「日本的空間」にリアリティをもたらす「結節点」なのだ。「オウム」以降、現実と虚構が対立という図式が単純に成り立たないことは明らかであり、その意味で斉藤の立脚点は正しい。しかし、虚構が自律的なリアリティを獲得する手段がなぜセクシュアリティなのか。性欲が虚構化に抵抗するのは確かだとしても、他にも手段はあるはずだと思われるが、なぜ「性」が特権的に選択されなければならないのか。また、日常的現実の尻尾を残すことなく、虚構にリアリティをもたらす「セクシュアリティ」の代表として、戦闘美少女が適していることは斉藤の議論から頷けるが、彼女らでなければならなかった理由はわからない。他の選択肢はあり得ないのか。

 ヘンリー・ダーガーの作品への偶然の出会いに端を発した、戦闘美少女への愛に満ち、説得力溢れる著作であり、目的論的に結論をやや急ぎ過ぎた印象が残ることが惜しまれる。