司会
森太郎 (ダサコン命名者)

 

パネリスト(登場順)
巽孝之 (『日本SF論争史』編纂者)

柴野拓美 (SF翻訳家)

永瀬唯 (科学技術史家)
永瀬さん、早く自己紹介文をSFWJの事務局に送ってくださいね、大至急ですよ、たのんますっつうことで、一応書いてみました。 1952年生まれ。技術文化史、SF史を専門とする。著書として『失踪のメトロス』(INAX,93年)、『肉体のヌートピア』(青弓社、96年)、『欲望の未来』(水声社、97年)がある。SFファンダムでは、おたくの鏡として恐れられている。

難波弘之 (ミュージシャン、SF作家)

野阿梓(SF作家/やおい作家)

小谷真理 (SF&ファンタジー評論家)

ディスカッサント
菊池誠 (SF物理学者)




 

プロローグ : 収束しない論争系にむけて

司会
 去る5 月に、巽さんが十年がかりの編纂作業を経てまとめられた『日本SF 論争史』(勁草書房)がとうとう出ました。それを記念して、今年5月のSFセミナーでは巽さんと年表作成を担当された牧眞司さんをお迎えしてパネルを組んだんですが、なんと一ヶ月で再版が決まったそうですね。今回は、それをうけて、この本に関わりの深い方々にお集まりいただいた次第です。
 おかげさまで、いい書評がいっぱい出ましたね。とくに<読売新聞>で東浩紀君がやってくれたのは、じつに内容をよく理解したうえで現時点での総括をも行おうとする、短いのに読みごたえのある書評だったと思います。
 ただ、一方で、<SFオンライン>に出た中村融氏の書評には、いささか戸惑ったのも事実です。わたしはSF 観なんてものはひとつに収束しないし、収束する必要もないと思っている。そのために多様なSF 観を並列しつつも相互に絡み合うようなアンソロジーを編んだわけです。論争史そのものが新たな論争を生むぐらいが、ちょうどいい。そうでなければ編集したってぜんぜんおもしろくないでしょう。
  ところが彼は、そうした構成のために、印象がひとつにまとまらない、というような感想をもったようですね。でも、同時代において、単純にひとつの印象にまとまるような本はもともと大したものじゃないし、それが論争史という複雑な主題だとなおさらです。多元的な編集が必要である理由は、きちんと序文に書いてるし、その結果 、テクストもダイナミックになったと思うので、中村氏がそのスペクトラムを消極的にしか捉えてくれなかったのは、わたしにとっては意外でした。

司会  
 せっかくですから原文をちょっと読みましょう(笑)

「このようにSF論と論争史が重ならない形で混在しているため、本書の読後感が定まらないと思われる。言ってみれば切り子の宝石が乱反射を繰り返しているといった印象なのだ」。
 それ、誉め言葉を使って批判してるみたいな、妙な感じなんですよ。ディレイニーだったらマルチプレックスの一言で済む。

野阿
 受け取り方の問題じゃないのか(笑)。

司会
 定まらないっていうことをずうっと書いていて、乱反射を繰り返しているといった印象と言われると……
永瀬
 ちょっと、それについてですが、SF論とSF論争がまじってるからけしからんという言い方みたいですけど、そもそも評論とか批評とかいうものはたいてい、弁証法とか対話編とかいう言い方からも知れるように、A対Bの対話もしくは論争という格好で展開されるところから、歴史的には始まってるわけですよね。

だからこそ序文で私は、「論争」という概念ひとつにしても、いわゆるポレミックとコントラヴァシーとバトルロイヤル、この3種類があるとわざわざルビをふってるんですよね。中村はそれもすっ飛ばしてるみたいで。(場内笑)

野阿
 なにもそこまで固有名詞を出さなくても――

司会
 あの、中村さんの話は置いといてですね……、
(場内笑)

Session 1 : 客観的な論争史か、一方的な皇国史観か

  巽 孝之・森 太郎

司会
 せっかくだから、ちょっとまだ伺いたいところが幾つかあるのですが。やっぱり客観的論争史にしようという感じで書かれたんですか? かなり積極的に巽孝之カラーを出して面 白くしようというよりも。

 基本的には過去にSFの定義をめぐる論争とか、いろいろあったわけですから、新たな論争をやるにしても、やっぱりそういう過去の積み重ねを知った上でやらないと建設的にならないと思ったのはたしかですね。ただ、スペクトラムのようにいろんな論客のSF観が並ぶっていう理想はあったな。SFファンが議論すると必ず「お前の定義は何だ」と言われてけんめいに共通 了解へ到達しよう、わかりあおうとするわけですけれど、ちょっと物騒な物言いをするなら、SFの定義なんか、もっともっとわからなくなればいい。SFっていうのはいろんな議論を闘わせる場なんだ、というのがいちばん大事なんですね。
  で、こないだ出たばかりなのかな、京大SF研の会誌<ワークブック>最新号のSFセミナー・レポートはとても良く書けていたんだけど、その中に、『論争史』に関して「昔話はきらいじゃないので」っていうコメントもありました。でも、私は別 に昔話をしているつもりは全然なかったんですよ。過去のもので今日までサバイバルした議論を今日もう一回たたきなおして、そのうえでもっと議論が深まればいいと思ってるから、あくまで「いま」を生きてるんです(笑)。論争を一点に収束させなきゃならない、とは一切考えていなかったですけど、ただ、最低限、過去の論争テクストの現物というか原典にはみなさんいちど接していただかないと、議論が一向に前へ向かわないし。  

野阿
 あとそれに補足すると……この間、山尾悠子さんの出版記念会があって、その席で石堂藍さんと巽と私が会ったんで、その話が出たんですよね。石堂さんは、論争史っていうふれこみなのに、なんで巽のが序文だけしかないんだって、怒ってるの。ただ私が思うに、巽が関係した論争をこの中に入れてしまうと、これが正編で、もう一冊別 に巽だけが関係したやつが続編として出るくらいのボリュームがあるんじゃないかと。

 やってもよかったんだけどね。

小谷
 裏論争史(笑)。

野阿
 裏論争史というよりも――。

永瀬
 非常にずるいんですよね。
 
野阿
 いや、ずるいっていうかさあ。

永瀬
 自分自身が関わっている(クズSF)論争に関して大原さんの文章だけ収録したっていうのがねぇ。

野阿
 一番コントラヴァーシャルだったのが巽のくせに、あたかも自分は何にも関与してないように書いているっていうのがね(場内爆笑)。これだと、大原さんだけが非常にまともなことを言ったっていうのがクズSF論争だったようにも見えるぜ。

 SF作家クラブ会長だから。

野阿
 いやー、そこまでして責任を回避したいのかなあ、このいいとこのおぼっちゃまは、って感じが私はしたけどね。まあ、編者ですからいいっすけどね(笑)。

永瀬
 いや、これは前書きにも書いてあることだけど、SF論っていうのはSF論をめぐる論争、とほとんどイコールになるっていう、このへんの誤解というのは、ちょっと問題ですよ。何か教科書的な分析みたいなものが批評だとか論だとかいう誤解が――えー、固有名詞出しませんけれど―― 一部にあるんじゃないかと。

 ええ、それで私、序文では、SF小説だって非常に論争的な部分でサバイバルしてるんだって書いてる。例も挙げてて、ディレイニーの『ダルグレン』とかル・グィンの『オールウェイズ・カミング・ホーム』とかギブスンの『ニューロマンサー』とかは、昔だったら批評的SFつまりメタSFといえば済んだんですけど、SFのフィクションとしてのナラティヴ自体が論争的なメッセージを含んでいる場合が往々にしてあるから、非常に論争というものを広く、拡げて解釈することが必要だということは、一応謳ったつもりです。SF史に一石を投じるような作品は、やはり何らかのかたちでSF論争史にも荷担しているのだ、と。ところが、いや、ほんっとうに申し訳ないですけれども再度名前を出すと中村融という人は(一同爆笑)、それじゃあここに福島正実さんの小説「SFの夜」が入ってるのもそうなのか、と揚げ足取りみたいなことを書くわけ。
 でもそれも、ちゃんと福島さんのセクションの序文で明言してるとおりで、「SFの夜」が小説であるにも関わらずこれに収められているのには、別 の理由がある。わたしはちゃんとこの作品が「SFならぬSFファンを真っ向から標的にした小説」と規定している。これは青少年ファンダムというものがあった時代の、プロ対一般 読者の闘争の一つの報告になっているわけですから、いわばひとつのノンフィクション・ノヴェルというかたちを採った傍証として収録したのであって、六〇年代当時の論争がいかにあちこちへ飛び火していったかを考えるのには、不可欠だった。そんなふうに、論争という単語をできるだけ拡げて考えたいっていうのが、この本のもくろみだったんですよね。

Session2 : 集団理性への提言

  柴野拓美・永瀬 唯

 

司会

 なんかひとつ、まとまったような感じがするところで、せっかくこうしてたくさんの方においでいただいているので、並んでいる順にいきましょうか。まず、柴野さんに幾つか伺いたいと思うんですが。日本でSF論が始まって一番最初といっていいくらいの時代からこの世界にいらっしゃるのに、これを読むと何かむしろ一番新しい内容になっているというような印象を非常に強く受けたんですよ。

野阿
 というか、これが初出なんじゃないですか?

 柴野さん、後から新しく書き直されてますよね。
 
柴野
 あれはでも、新しいことは何も入れてないんですよ。はじめ連載している途中でいろいろ横やりが入ったりしてゴタゴタして残りが書けなくなったんで、その残りに書く予定だったことも加えて、ちょっと順序を入れ換えただけで、新しいものは何にも入れてません。ですから、あれは昔から思ってたことそのままなんで、つまり私は十年一日の如く同じことを言ってるんで。
 でもね、私はあれが正しいSF論だと決めつけるつもりはありません。もともと文化系の人間じゃない、理科系ですから、実験や何かを苦労してまとめた経験はあっても、ああいういわゆる論争みたいなもののルールっていうのは全然知らない。だから自分としては本当に思ったことを言っただけで、その思ったことっていうのも非常に個人的なんです。自分は何故こんなにSFが面 白いんだろうか。それが気になってしょうがない。たとえば、実に上手い小説でも、自分が読んで何となく面 白くない、ぴんとこないものがある。何だろう。って考えているうちに僕はこの要素に行き当たったわけですね。それは個人の理性に対する不信感じゃないかと。 でも、個人の理性が全てだという感覚に対する不信感なんていうのはもう、カントあたりからすでに言われてるんで、そういう不信だけじゃ理論にならないし、考えているうちに「集団理性(Collective Reason)」という言葉で規定できる何かがあるんじゃないかという気がしたんで、これ幸いと打ち上げてみたというのが本当のところなんです。
 だから、こういう議論のしかたも知らないような理論が巽さんの本に取り上げられたということ自体にびっくりしまして、大変ありがたいと思ったんですが、この間のセミナーなんかでは森さんにも巽さんにも随分、持ち上げられちゃって(笑)、穴があったら入りた……くもないですけれども(笑)、わりと目立ちたがり屋ですから(笑)、まあ、本当に嬉しいやら恥ずかしいやら。
 だいたいもう僕は目も悪くなり耳も悪くなり、頭もボケてきてまして、みなさんのお話を先程から聴いていても、こういう討論についていけるかどうかわからないんですけれども、まあとにかく、出てきてみました。
 で、定義の問題ですが、そんなのはもう古いみたいに言われますけど、アメリカじゃあまだ定義の議論やっているんですね。(笑)  

司会
 そうなんですか?
 
柴野
 数年前、あれは93年かな? 94年かな、とにかくワールドコンでSFとは何かというパネルがありまして、フレデリック・ポールやグレゴリー・ベンフォードといっしょにパネルに出たんですが、そこでいろいろ議論しまして。で日本に帰ってその話をしたら「何だ今頃そんなことやってんのか」って言われました。けれども、そこでフレデリック・ポールとぶつかりまして、お互いに礼儀正しくやりとりした覚えがあるんです(笑)。長い友人であるからこんなことは言いたくないが、みたいな具合にね(笑)。
 僕は「SFっていうのはファンタジーの一形式として、ファンタジーっていうのは架空のことを現実らしく語るために苦労している文学。SFっていうのはそれを一歩先へ進めて、架空のことが現実らしく見えるのは当たり前だというふうに割り切っている文学だ」という言い方をしたら、フレデリック・ポールが「SFとファンタジーは全然別 のものだ。ファンタジーは過去を見ているけどSFは未来を見ている」。これね、両方とも当たってるんです。僕は形式論で言ったんで、向こうは内容のことを言っているわけですよね。
 とにかくこんなことは、向こうでもまだやっているわけで、これはまだ安心してこの議論を闘わしてもいいのかもしれませんよね。  

司会
 私なんかの印象だと、SFの定義をめぐる議論っていうのは「SFの定義は何だ」って言われたら「いや、別 にそんなの人それぞれじゃないの?」ってみんな思うようになっているような印象があるんですが、どうですかね。

柴野
 今の日本ではそれが正論だと思います。ただ、僕の場合は何故自分はSFが面 白くて他のものは面白くないのか。気になってしょうがなかったんですよ(笑)。だからそれを突き詰めたいと思っただけ。で、結局この集団理性ってのが、個人の理性に対する不信感みたいなものから出てきたわけですけど、よく考えてみるとこれ、個人の理性がまたそれを考えているわけで、ということはとんだドン・キホーテなんですよね。
 で、昔から、この点が気になってたわけなんですけど……あの、お読みになってますでしょうか、サーバーの『角笛の音響くとき』っていう小説がありますよね。あれ、実にSF的な趣向をこらして話としても面 白いのに、私はぜんっぜん気に入らない。SFっていう気がしない。何故SFっていう気がしないのかと考えてみると、あの中の登場人物が、あの異世界から逃げ出すことばっかり考えていて、あの世界を改革しようとか、あるいは自分がとって代わろう、というふうなことをなんにも考えていない。つまり、端的に言えばフロンティア精神の欠如でしょうかね。でもそこでまた私行き詰まりまして、ではその集団理性、ないしは個人の理性への絶望とフロンティア精神とがどう関わってくるのか。それが長い間気になっていたんですけど、この間ふと気がついたんです。個人理性の絶望を個人理性が考えているっていうのはこれこそ一種のフロンティア精神なのかも知れないと(笑)。

司会
 あの、この本を読んでいると、さまざまな方がSFの定義をなさっていて、中でも私が感銘を受けたのは、今まで間接的に何度も言及されていた柴野さんのSFの定義で「人間理性の産物が人間理性を離れて自走することを意識した文学」というやつで、これを読んだときに思わず「おおっ」と声を上げてしまった、すごい感動的なもので、これはこの通 りの形では、収録されている論稿ではなくてその前の巽さんの紹介文の中に出てくるんですよ。

 これ、やっぱり柴野さんの画期的な業績だと思うんですよ。非常によくわかるSFの定義になっている。さっき、新しいと言ったのには二重の意味があって、ひとつには文字どおり、柴野さん自身が書き直されたからテキストが新しくなった、というようなこともあるんですけど、もうひとつには、昔からお考えになっていたことが、新しい、今の、例えばサイバーパンク以後の現代SFにもかなり当てはまるところがあるんじゃないか、ということで。

柴野
 そうですか?(笑)

永瀬
 よろしいですか? 今日は、ちょっと柴野さんをヨイショするというつもりで来たと言いますか(笑)。えー、今お話しているのは第一部、第二部ですね。「SF理論のハードコア」、「論争多発時代」。ひとまずSFの定義とかSFとかを離れて時代で見ちゃうと、小松さんを始めとして荒巻さん、そして柴野さんに至るあの頃のSFっていうのはやはり思想的な意味で一番最先端的なものを語ろうとしていたってことが認識できます。
 まず一番最初に小松さんがいた。これは巽さんと前も話したことがあって全然別 の経由でやったんですけど、チョムスキーという名前が出てきます。小松さんの思想っていうのはこのあたりに重なるんじゃなかったかな、つまり、広い意味でレヴィ・ストロースじゃないほうの、チョムスキーとかミンスキーにつながるような構造主義の先触れなんですよね。この間『虚無回廊』の連載の最期の方が単行本になりましたけど、あのなかに出てくる異星人が結晶構造に仕込んだ言語の構造ってのを説明してる部分ってのが、というのが、まさにミンスキー。あの作品における人工実存ってのも、よく読むとミンスキーがAIについて語っているのとほとんど一緒なんですよ。
 ただね、この構造主義というのは後に批判されるわけですよ。あらかじめ将来どういうふうに進化していくとか進歩していくっていうのが埋め込まれているみたいな発想自体がおかしいというところから、ポスト構造主義とかポストモダンとかがでてくる。
 このあたり見ているとね。なぜか、文系でない理系の柴野さんのほうが自走性という概念を出されている。
  これこそ、ポスト構造主義が問題としたものなんですよ。 当時はむしろ集団理性論のほうが同時代に似たような議論つまり構造主義的なものが潜んでいると言われていて、僕としてはそちらの方が感じるところがあったんですが、今読み返してみるといわば小松さんのほうが、あらかじめ人類生命が生まれたときに、進化の頂点で神に至るようなものが、あらかじめその中に埋め込まれていて、それをたどっていくのが歴史だみたいな、構造主義的な格好がある。反対にちょうどポストモダンとかそれこそカオスの時代的なものを予見する形で、エンジニア的な、エンジニアとしての教養を持った柴野さんが、自走性を言い出している。個人的にはだから、柴野さんが一番新しかったんじゃないかと思うんです。  

 小松さんの『未来の思想』も、基本的には柴野さんのサジェスチョンに触発されて書かれているし。

柴野
 小松さんっていうのはすごい人ですよね。イタリア文学専攻だっていうんで、初めのうちはね、SFなんて、本当にあの人わかるんだろうかと思っていたら、あっという間ムム本当に2,3作のうちに−−SFの真髄をがっちりつかんじゃった。だから私、あの人と対談したときちょこっと失礼なことを言ってるんです。自分の思想はSFファン仲間との議論から出てきたみたいなことを非常に謙遜しておっしゃったんで、「本当にあっという間に見事にSFの真髄を捕まれましたね」なんて(笑)。本音はそういうことです。どうも(笑)。