アメリカン・フェミニズムのフレンチ・ルネサンス

新田啓子
(東京学芸大学)

 本書が英米で出版(1982年)されてから20年余りの後、ユーモアとニュアンスに満ちた原書の文章を、これほどまで完璧に日本語に転移(?)させた訳書が現れた。が、その傍らには、天真爛漫に感動してばかりもいられない評者がいた。なぜならば、合衆国人文学界での精神分析批評の形成は、本書が主題とする「現在のフェミニスト理論とジャック・ラカンの精神分析論との関係」以前から、すでに様々な論争に彩 られてきたからだ。そもそも、ラカン理論一つで「精神分析」を代表しようというのは、それこそラカン派に指摘されてしまいかねない、(部分と全体の混同に基づく)権力の提喩的戦略そのものである。恐らくそうした問いの喚起も著者の意図のうちであろうが、彼女が議論の対象をラカンとラカンから逆算したフロイトに限った分、逆につらくなったのは読者の方だ。なにしろ「フェミニズムと精神分析」がおまけのようにひきずって来るアメリカ的<事情>は、収集不可能な代替の連鎖としてこちらに手渡されてしまったのだから。ともかく、全編にちりばめられるエッチな地口で笑わせるのもほどほどに、出版の前と後(この20年間)の批評状況の見直しを突き付ける本書はまさしく、パンドラの箱と言ってよい。

 合衆国においてフェミニズムと精神分析の二者は、「女が欲しているのは何か--ペニス」というフロイト命題を介して繋がったのがその始まりであったと言われる。だが、ケイト・ミレットやベティ・フリーダンたち、元祖現代フェミニストの著作に展開されたフロイト批判も、次元は違いこそすれ、その二者の忘れ得ぬ 邂逅の形であった。はたまた「男もすなる」フロイト的解釈という遺産(ちなみにノートン版The Turn of the ScrewにはEdmund Wilsonが今なお名を残す)でさえ、文学研究者としては、今さら忘れたふりもできないある種の精神分析理論の応用だ。事実、この手の批評言説を布置し直す営みに、フェミニストはかなりの「政治的」情熱を注いだ。こうした例は、そもそもフロイトを<セクソロジーの伝導師>として定着させた、極めてアメリカ的な文化状況に端を発する批判言説と解される。一方で、それ自体がフェミニスト精神分析の学説である「対象関係理論」の隆盛は、合衆国のフェミニズムと精神分析の関係を語る上ではさらに本質的な潮流だろう。ナンシー・チョドロウの『母親業の再生産』に代表されるこの理論は、「去勢」を契機とする「父の法」の作用を主題としたフロイト的シナリオには描かれない前エディプス期の母子関係(特に娘)を検討し、性差社会の心的構造を暴こうとした。こうして、いみじくもRachel Bowlbyが1990年代初頭そう呼んだように、英米のフェミニズムと精神分析は、「当事者同士が望まない因縁でこそ結ばれてしまった」のであり、その媒介者と言えばまず、時に誤解され、常に批判されるフロイトであった。

 しかし興味深いことに、ギャロップの論じる「関係」はそれとは全く違う。彼女が本書で行うのは、その複雑な関係を分析/整理することではなく、彼女自らが「この二つのもの」を「従来とは異なった秩序に拠って交わらせること」の方なのである。これは、20年後の読者にとってならずとも、些か戦略性のあからさまな宣言である。「従来とは異なった秩序」が、ラカンの思想体系の一端を指すのは明らかだが、さらにギャロップは、この介入こそは「現在のフランスでの精神分析論とフェミニズムを[英米の] 読者に知ってもら」うきっかけとなるばかりでなく、「フランスの精神分析とフランスのフェミニズムに貢献」しさえするものだと語るのである。すでに存在した二者の関係はまるで無視(隠蔽)したままに自ら関係を築こうとする試みと、繰り返される「フランス」に暗示されるのは何なのか。それはもしや、<セクソロジーの伝導師>として取り違えられたフロイトのいる「役に立たない過去」を一気に超越し、フェミニズムと精神分析の合衆国における別 様の大復興(フレンチ・ルネサンス?)を実現しようとする戦略性なのではあるまいか(ちなみにかつてポスト構造主義論はフレンチ・コネクションと呼ばれたものだ)。ともあれ、この書がフランス思想に貢献したかどうかは問えないにしろ、ラカン(フランス)の解釈を経由したフロイトと精神分析論を礎に二者の「関係」を再構築すれば、合衆国で流通 する「誤った」フロイト表象から理論を引き離し、全く新たなものとして<再生>するのはまず可能なことと思われる。

 ところで戦略性とは通常、巧妙であればあるほど人目につかないものである。それを明かすには大抵、本書のギャロップ自身が(訳者を手こずらせたとある)「執拗」さで諸テクストに加えているような脱構築的解釈操作が必要だ。しかし当の本人は、己の研究対象諸氏とは違ってあっさりと手の内を露出するのが好みのようだ。よって第一章では、フロイト誤読の告発が早速開始される。ここで再考されるのは、女性解放運動の最盛期に敢えてフェミニストのフロイト誤解を批判したジュリエット・ミッチェルの著書である。 ギャロップは、フロイト理論が生物学的本質論ではないことを(つまり、彼が男根の有無が人間発達を決定するなどとは言わなかったことを)敷衍したミッチェルを評価する。だが他方ミッチェルは、現実界の父権制度の彼岸にあって、それへの対抗を合目的化するような「女性の自我」を想定する禁を犯したという。本質論を批判している筈の論者が結局その誤謬を反復してしまうというこの事態は、ラカンの思想体系の中核を成す言語概念の軽視から来ている。すなわちミッチェルは、ラカンに言及しながらも、所謂「言語に引き裂かれた自我/存在」というテーゼを捨象したばかりに、最終的命名による合理化が不可能な「無意識」の「換喩的構造」--あるいは「欲望」--を「要求」という「倫理的言説」に還元し、結果 、無意識の次元を生きることのない、本質的主観としての女性を想定するはめになってしまった。

  この手の議論はフロイトを読み直す意義を自ら損なってしまっている。そこで続く三章分では、精神分析の「ファルス中心主義」を否定する前にまず、その特権性の有り様を解明するという方針の下、男根の解剖学が繰り広げられる。この試みが下敷きとするのは言うまでもなく、曖昧なフロイト体系の中にラカンが浮彫りにした<ファルス>と<ペニス>の差異と連関性というおなじみの問題だ(この問題は七章で詳しく検討されている)。<ファルス>とは、現実界を象徴化する際に逃げ去る表象不可能な他者であり、認識を外部から基礎づける構造であるから、理論的には<ペニス>とは関係ない。著者は、この、人を主体化(=全体化)する記号が、人間身体の部分である特定の性器と一致することはないと説く一方、それでもなお<男>と<ファルス>を引き離すことの難しさに触れながら、その解決の方向性を、ラカンが実践したと思われる、いわば<ペニス><の陳腐化、モノ化に求めようとする。あくまでも特権的なシニフィアン<ファルス>の作用にこだわったラカンは実のところ、<ペニス>による身体的快楽という限界点に溺れる男性は欲望の「ファルス的秩序」には到達できないから、結局(女性と同様に)去勢されている、と論じ得たのだという。ギャロップによれば、ラカンは、精神分析の男性性器的隠喩への依存を批判し、より生真面 目に「女が欲しているのは何か」に取り組んだ論者、アーネスト・ジョーンズやスティーヴン・ヒースより、ずっと優れて「女たちの仲間」であった。なぜならラカンは、ファルスに「偏心」することで、逆に自分の「陰茎」を露出してしまい、男が疎外された主体であるということを実演したからだという。

 ギャロップによれば、こうしたラカンの「ファルス偏心」性、あるいは「性器露出」癖は事実、リュス・イリガライを初めとする多くの女性論者を惹きつけたという。第五・六章、フェミニズムと精神分析の関係を「娘=フェミニズム」と「父=精神分析」の間の「誘惑」と読む本書の佳境は、まさしく性器の象徴性をめぐって展開する。著者は、イリガライのフロイト、ラカン解釈を分析し、彼らの理論のファルス中心性を際立たせた上でそれを自らの「生意気な質問」で分断・撹乱するという、イリガライの一貫した解釈戦術を解説する。またそれは、「権威」の正しさに帰属する精神分析理論の求心性を暴きつつ、己の言い分は断片的な「質問」にとどめることで学問的言説の脱権威化を実践した、イリガライへのオマージュともなる。この展開の一体どこに「誘惑」という契機が現れるのか。ギャロップはまず、イリガライが強調した精神分析の求心性に、権威を持つ男がそうでない者を知識で貫き去勢する(つまり、他者を権威へと同質化させる)構造を見い出し、それを「肛門性交」という比喩で表す。「肛門性交」が男性同性愛の行為を伝えるイメージを持つことで、著者は、女の性器/欲望を「盲点」として表象し損ない、欲望の多義性をファルスへ一本化してきた精神分析を、男性同性愛に見立てて批判しているのである。この比喩の問題性は最後に考察するが、ともあれ著者は、その同族で閉ざされた世界に「男と女の関係」を構築すべく「ファルスの禁制を破」り、「父」を誘惑し、「男の身体に触れ」、そのペニス>的欲望を露にするのがイリガライの作戦であったとまとめている。「同性愛」に対する「異性愛」とは、精神分析に「異種混淆性」を持ち込んで、それを脱権威化/ファルス化する営みに相当するという訳だ。

 これで大体、本書中盤までの議論を説明したことになろうが、実際ギャロップ独自の解釈パターンに関して言えば、これで出揃ったと考えてよかろう。第八章で検討されるジュリア・クリステヴァのセミオティック>並びに母性棄却>理論には、今度は父権制における「母の領域」の強制力を脱ファルス化させる方法として、先の「性器露出」と似た作戦が読み込まれているし、エレーヌ・シクスー、カトリーヌ・クレマンによるフロイトの『ドラ』論を扱った第九章では、ヒステリー患者のあり方の中に、父権制秩序を混乱させる可能性を持つ「異種混淆性」が読み込まれている。特に原書の出版から20年がたっているため、著者の議論については個々に論争の必要も生じよう。(例えば、本書で要約されるイリガライやクリステヴァの「母」概念が解釈として妥当であるかについては、竹村和子「あなたを忘れない」[1999年、英訳がつとに望まれる]などの参照を経た上での考察が必要だろう。)当然と言われればその通 りだが、この20年間の状況変化>は特に本書の佳境とも言うべき後半部分の議論に関して様々な思索を触発し、それはまた、本訳書の出版が1980年代初頭ではなく2000年であったという(必然性にも似た)事実を納得させる事情ともなっている。したがって、ここでは最後にその点に対する説明を加えるとともに、それに照らして浮かび上がる若干の疑問点を並べておきたい。

 いきなり逆説的な物言いになるが、評者は、フェミニズムと精神分析をフランス経由で蘇らせようというこの試みがリアルタイムで翻訳される可能性はなかったであろうと確信する。私自身が初めて原書を手にしたのは1990年代初頭であったが、それは合衆国にあっては多文化主義論、英米文学研究にあっては新歴史主義とポストコロニアル批評が浸透した時期だった。ゆえにその頃精神分析理論は、常にその「非歴史性」を批判する論考とともに読まれ、どちらかと言えばその限界の方が強調されていたと思える。なかんずく、女性やマイノリティのテクストを研究する者にとってより重要だと思われていたのは、かの名高いガヤトリ・スピヴァク「国際的枠組みにおけるフランス・フェミニズム」(初出1981年)の方であり、事実こちらは早くから翻訳されていた。そこでスピヴァクは、本書では中心的な扱いを受けているクリステヴァの記号論がオリエンタリズムに結び付く危険性を論じ、脱権威的・未決定的主体表象にのめり込むシクスーの前衛性が、性/地域/民族差別 から遠く離れて行く矛盾を批判した。だがその後、1990年代後半には、ポストコロニアル批評の成果 として暴力>への思索が蓄積され、それが記憶>やトラウマ>といった主題の探究へ結実するにあたり、奇しくも精神分析学がまともな検討を受けるようになる。同時に、(スピヴァク式)唯物論が必ずやぶつかる「戦略的本質主義」を乗り越えるための文化構築論の試みと、それと合流するパフォーマティヴィティなどの性差パラダイムなども登場し、いまや文化研究に精神分析的知見は欠かせない。本書が翻訳された意義をこうした文脈に照らして確認するのは、不当な行いではないだろう。

 フェミニズムと精神分析を「誘惑」という隠喩で語る本書には、そうした変化を経てこそ際立つ温故知新が期待できる。「誘惑においては、能動的であること/受動的であることの二項対立はかなり曖昧」だと著者は語る。つまり、娘が父の支配を掘り崩すために仕掛けた誘惑は、実は娘を支配構造に取り込みたい父に仕組まれた危険性から自由になり得ない。すると、この作戦は一定の危うさの上に成り立つことが暗示されるが、実はその危うい曖昧性は、フェミニストの称揚する未決定性の現れである以上に、抵抗の流動的行為体とでも呼ぶべきものをこそ見据えているとは言えまいか。著者が論じるように、(父権制であれ精神分析であれ)制度から出発せざるを得ない者は、意図した抵抗の主体となることはできない。すると、ここで論じられる抵抗の流動性は、ジュディス・バトラーの主体論を予期させるものであるのかも知れない。(ちなみにバトラーの学問的出発点はフランスのヘーゲル受容研究であった。)

 だが一方で、著者が使用する隠喩の曖昧性から生じる疑問点には、見過ごしにできないものもある。まずギャロップは、己がイリガライを読む上で持ち出した「誘惑」という概念から「愛」という審級を取り外そうとする。しかし、何ゆえに「誘惑」は常に性器に向かわねばならぬ のか。「愛」という観念ではなく身体である「性器」であれば、権力を持つ一者へと収束してしまうことなく、異種混淆的行為を果 たし得るから、と著者は言う。だが、そうであろうか。事実肉の固まりである筈のものが<ファルス>と間違えられるのが言語的象徴作用の習いなのだ。また、そもそもラカンが使った「誘惑」という隠喩は、それが能動と受動の流動性を表現する限りにおいては、流動する筈のない個体同士である<愛する者>と<愛される者>の間に起こる<転移>を表意し続ける。つまり、そこに身体はあろうとも幻想は発生し続ける。先に見たように、もしギャロップ議論の意義がその「危うい曖昧性」を捨象せずに保持し続けている点にあるとすれば、この言語で呼ばれるものとしての審級を失した性器の想定は全くの矛盾である。彼女はラカンを「ファルス偏心的」と呼ぶが、実際性器に偏心し、その存在を楽観視しているのはギャロップの方なのかも知れない。あるいは問題はむしろ、彼女が時に、己の名づけが(偶発的であるにせよ)象徴的暴力になる危うさを忘れてしまうことなのかも知れない。先ほど触れた「同性愛」という隠喩にせよ、なぜそれがことさらに「肛門ファシズム」の表象に特化されるのか。原著ではまさに "homosexuality" となっているこの概念が、むしろセジウィックの"male homosocial relation"に近いものであることは議論から分かる。だが、仮に「同性愛」という言葉を以て「一者支配」を表すにせよ、それであれば逆に父権制下の「異性愛」の方がずっと「一者支配」を温存した体制である。その危険性にも気づきながら、なぜ著者は、クリステヴァ/フィリップ・ソレルス夫妻の言説上の異性愛交歓を5ページにもわたって讃えたのだろう。同じく、あくまでもファルス的一者の支配を転覆するための「異性愛」ないしは「異種混淆性」にこだわりながら、なぜ彼女は、「娘」にとっての「母」を「父の法」制度の別 名(つまり法に貫かれたもの)とだけ読むのだろう。

  こうして本書には、自らの隠喩に裏切られるという、議論の本質に関わる失策を犯すギャロップを読むこともできる。彼女の高らかな戒め「言語理論を取り入れることで本来の先鋭性を取り戻した精神分析論を、フェミニズムは受け入れなければならない」は自己言及的なものとして聞くのが妥当だ。(無意識のパワーは恐ろしい!)だがそうした細部にいちいち憤るのはやめよう。最近日本の大衆的末端では、フェミニズムは「格闘技」や「喧嘩」の道具とされているらしいが、本書の日本語版をクールにまとめた訳者が我々にくれたものは、揚げ足を取らずにこの書を堪能するための20年間の余裕であるのだから。