文学的デノミの戦略

大串尚代
(慶應義塾大学)

現在ミシガン州立大学で教鞭を執るフェミニスト批評家マーリーン・S・バーは、もしかしたら文学批評界の仕掛け人と言えるかも知れない。彼女の作り出す新しいキャッチーなタームは、これまで日の目をみることがなかった、ないしはステレオタイプなイメージにとらわれていた文学ジャンルを救出する。その文学ジャンルとは、サイエンス・フィクション――しかもその前に「フェミニズム」がつく。そう、彼女が『男たちの知らない女』で緊急出動して救出に向かうのは、原題が指し示すように「文学界(宇宙)で迷子になってしまった(Lost in Space)」フェミニストSFなのである。

フェミニズム、とか、フェミニスト、と聞いただけでげんなりする読者の方もいるだろうか。だがそんな心配は無用だ。なぜならそんな人のためにこそ、バーはフェミニストSFを救おうとしているのだから。

本書はただでさえ主流文学から外れているSFにおけるフェミニスト批評の実践で幕を開ける。第一部「フェミニズムとSF」では「文学という制度が路側帯へと押しやったフェミニズムSF」を追求したバーが、まずこれまでに失われてきた女性の声を取り戻すことから始める。そこで俎上に上るのは、リドリー・スコット監督の『テルマ&ルイーズ』、アン・マキャフリイの『竜の歌』、マージ・ピアシー『時を飛翔する女』の他、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア、アーシュラ・K・ル・グィンなどの日本人読者にもおなじみの作品をはじめとして、スージー・チャーナスや、ルイーズ・バーニコウなど(少なくとも私には)ほとんど知らない作家の作品を取り上げ、丹念に作品の分析を試みる。

数多くの作品を具体的に紹介し、フェミニスト批評を繰り広げるこの第一部では、「家父長制の男と搾取される女」といった二項対立の構図があまりにはっきりしすぎている部分もあり(たとえば冒頭の『テルマ&ルイーズ』論における「家父長制こそが女性から人間性を奪っている」というくだりなど)、ややもすると「男=くたばれ、女=がんばれ」といった論旨に落ち着いてしまうのかと思うかも知れない。だが、第一部第六章「女の中に男が一人」(マージ・ピアシー論)からバーの視点は複合的になる。ここではピアシーの男を変容させてしまうことで、男性の役割を変化させる物語にに注目し、男性フェミニスト内部の「女装する男性俳優」の存在を容認する。バーはここで文学におけるジェンダー戦争の終結を宣言し、つづく第二部「フェミニズムとポストモダニズム」でさらにスリリングな分析を展開する。

「フェミニズム」というタームから男女の垣根を取っ払ったバーは、続いてSFというタームを問題視する。彼女はSFというジャンル名の代わりに「ポストモダン・フェミニスト・ファビュレーションというより大きな全体の中に」フェミニストSFを組み込もうと提唱する。そうすれば「(オクテイヴィア・)バトラーやティプトリーを初めとする作家たちが『SF』というレッテルから自由にな」り、「文学的異端者(エイリアン)とみなされることもなくなるだろう」というわけだ。この文学的デノミは、果 たして成功するだろうか。バー自身が第八章の扉でフェイ・ウェルドンの作品から引用しているように「だけど名前を変えたからって、本質まで変わるわけじゃないでしょ?」という問いに対して、きっとバーは自信を持ってこう答えるのだろう、「いいえ、それが変わるのよ」。

「自然ではない世界を設定し、時間の制約を犯し、シュールな世界でジェンダーやリアリティを超越すること」は、SFでは当たり前のことだ。では、ヴァージニア・ウルフの『オーランド』やジュナ・バーンズの『夜の森』がフェミニストSFと同列に語られることが果 たしてあるだろうか。バーは「フェミニストSF」という名称が、こうした作品同士のつながりを妨害していると論じる。フェミニスト・ファビュレーションとは、単に呼称を変えるだけではなく、フェミニストSFを救うべく他の複数にわたる文学ジャンルとの連携を可能にする。

つづく第九章「アメリカを変える――メルヴィル再読」は本書中の白眉だ。「規範から外れた作家」と位 置づけられてしまうフェミニスト・ファビュレーターが、「男らしさの物語」を捨てる反家父長的ファビュレーションと手を組むことが可能であるというところまでは「なるほど」と思いながらページをめくると、その「反家父長的ファビュレーション作家」としてなんとエドガー・アラン・ポウが論じられるのだ! バーによれば「ポウは探偵小説を生み出したのみならず、男らしさを恐怖物語として書いた」というのである。「黒猫」を「暴力的な男性に立ち向かう女性たちの声が聞こえてくる」作品と分析するバーの手腕は冴えわたる。男性作家みずからが「男らしさ」を捨てる物語を、『宇宙大作戦』『フック』などに次々に見いだすバーは、フェミニスト・ファビュレーションが決して女性だけのものではないことを示す。村上春樹、サルマン・ラシュディ、ソール・ベローなどの男性作家たちまでもフェミナイズするバーは、『男たちの知らない女』における文学的デノミに成功したのだ。その意味でも本書の持つ意義は大きいだろう。

今年7月末に行われた京都アメリカ研究セミナーのために来日したバーは、調和しないはずのジャンルがある地点で集約する「ジャンル・フィッション (genre fission)」なるタームを紹介した。ジャンルの越境やジャンル混淆とはまた違う路線を見いだした彼女の新たな批評的仕掛けは、まだ生まれたばかりだ。