増え続けるイメージの中で

深瀬有希子
(慶應義塾大学・院)

 駅の売店はさながら女たちの小さな美術館だ。雑誌の表紙を飾る女たちが所狭しと並んでいる。ブランドの鎧で身をかため、いざ出陣のキャリア風の女たち。冬の最中にビキニを着ている、たわわな乳房の女たち。あったかモヘヤのセーターに守られて、誰の帰りを待つの癒し系の女たち。しかし彼女たちは何を表わしているのだろう。

 かつて街にある彫像を調査し、なぜ公共空間に女性ヌードが置かれているのかと問うた、フェミニスト美術史家・若桑みどりの『象徴としての女性像』は、私たちに再び『絵画を読む』ことを教えてくれる。本書は20年前に著者自身が「陥った過ち」を見直すべく執筆された。著者は『寓意と象徴の女性像』において、西洋には、例えば「真理」という、「高貴な尊厳にみちた上位 の観念を象徴する女性像がある」ことに「始終高揚」していた。けれどもその女性像は、現実社会において女性が高い位 置を占めていることを示してはいなかった。だとしたらなぜ、それらのイメージが女性にあてがわれたのか。著者は伝統的な図像解釈学に、フェミニズム、ニュー・ヒストリシズム、ポスト・コロニアリズムといった現代批評理論を導入しつつ、その問いの答えを、イシス、デメテル、パンドラ、エバ、マリア、リリト、ルクレティア、アテナ、アラクネ、ユーディットといった女性たちに求めていく。

 紀元前7000年から現代に及ぶ西洋美術や文学の中に描かれた女性像の変遷を辿る本書は、全5章にわたる大作だ。途中私たちは、扱われる時代や土地に隔たりを感じ、ともすると「ここに分析された女性イメージは決して過去のものではない」という序論における著者の言葉を忘れかけてしまう。しかし、他の章と構成をわずかに異にする第3章「ルクレティア--ファロス(男根)の帝国」において現実に引き戻される。なぜならその第1節において、覚えも新しい「沖縄における少女レイプ事件をめぐる規範的言説」が論じられるからだ。著者は、被害者が「少女」ゆえに表面 化したこのレイプ事件は、沖縄における米軍基地縮小要求という政治的議論を展開するための単なる「きっかけ」になり下がり、性暴力があるのは基地があるからだという代表的見解は、「基地をなくし、戦争をなくしても、力による他者(女性)の抑圧と支配の集団心理とその構造が温存される限り断じてレイプはなくならない」ということを隠蔽していると主張する。そのあとで、およそ2500年以上昔の「歴史上もっとも有名な強姦事件」の被害者である一女性を著者は描く。

 彼女の名はルクレティア。夜遅く帰宅した夫コラティヌスは、王子タルクィヌス・セクストゥスを連れてきた。ルクレティアは嫌な顔一つせずタルクィヌスを歓迎する。皆が寝静まったその時、タルクィヌスはこのできた女ルクレティアの床に忍び寄り剣をもって結婚を迫る。ルクレティアは拒んだにもかかわらず・・・。翌朝ルクレティアは父と夫に昨夜の事件をすべて語り、その復讐を願いつつ自らの胸を刺して息絶える。ルクレティアの父、夫、そして彼らの友人たちはこの事件を「きっかけ」に集結し王一族を追放する。ルクレティアの物語は、王子タルクィヌスとの間の真相をめぐって多くの芸術家や批評家の想像力を喚起した。

 そしてここに一枚の絵がもたらされる。それはすでに死して横たわるルクレティアの傍らで、男たちが手をとりあって王家打倒の誓いをしている場面 を描く。あるいはまたもう一枚の絵においては、前作では服を着ていたルクレティアは、ビーナスにも似た裸の姿で、長い布をもってその顔を隠している。ルクレティアは何も語らない。これらのルクレティアに対して著者がなすことは、彼女自身が何を語ろうとしていたかを安易に読みとったり、彼女に代わって「ノー」と叫ぶことではない。そうではなく、描かれた彼女を通 じて男たちが何を語ろうとしていたかを探ることである。

 先の絵において、自ら死を選び、服を着たままの姿のルクレティアは貞淑とモラルの遵守を表わす。そしてこの貞淑なるルクレティアが画面 の隅に追いやられ、男たちの復讐と共和国建国の誓いの姿が中心に置かれることによって、男女間の性的な事件は政治的事件にすり変えられた。また二つ目の絵においてルクレティアは、なぜ顔を隠しているのかと不審がられ、隠しているのは思いがけず感じてしまった快楽の笑みだろう、と解釈されたのだった。しかし一体なぜ、恐怖と屈辱のせいではないのだろうか。かくして家父長的解釈史の文脈において、貞淑な妻ルクレティア像は欲望と堕落の表象に変化し「永遠にレイプされる」。

 このように、ひたすら一方的に意味を与えられ描かれるだけの女たちを見て苦しくなり、私は半ば救いを求めるようにして読み進めていく。著者はその期待を決して裏切らない。彼女は17世紀初頭の女性画家アルテミジア・ジェンティレスキ(1597-1652頃)によって描かれ、フェミニスト美術史家メアリ・ガラードをして「史上初の反男性中心主義的ルクレティア図像」と言わせしめた、一作品をとりあげる。ジェンティレスキのルクレティアが、500頁におよぶ本書の中で一頁まるまる使って最も大きく取り上げられたこと自体に、読者は著者が語ろうとしている何かを読み取らなくてはいけないだろう。そのルクレティアは、剣を持っているが決して自らの肉体を突き刺すことはしない。彼女は「受動的な美徳の実践者でもなく、悲劇的なあきらめのヒロインでもなく、自分の運命を自分で選択するために苦悶」する女性であり、「彼女が抵抗するものは、強姦者のみではなく、彼女のまわりのすべての男性に対してである」。

 全章を通じて著者の主張は一貫している。エバがアダムの骨から創られたように、アテナがユピテルの頭から生まれたように、女性=シンボルは男性によって作られた。そしてそれがいかに家父長制度を男女両性に内面 化するために生産され続けたかを、著者は豊富な図版と膨大な先行研究をふまえながら巧妙に暴き出す。それは、家父長制という壮大なタペストリーを、タペストリーの中に編み込まれてきたまさにその対象であるところの女たち、ひいてはそれを作り上げてきた男たちの目に明らかにし、男女双方がともに抱える「内面 の呪縛」を解放するための一つの芸術的作業である。

 しかし私たちは、家父長制のタペストリーに描かれた女たちが「決して過去のものではない」というこの芸術家=著者の言葉を忘れてはいけない。キャリア風の女にせよ、ビキニ姿の女にせよ、癒し系の女にせよ、探し求めている本当の自分もまた一つのイメージだとしたら、一体私たちはイメージを越えることができるのだろうか。あるいは私たちは、増殖し反復されるイメージの只中をこれからも彷徨い続けなければならないのだろうか。渋谷ではかつていた「ヤマンバ」は消え去り、今は「アマゾネス」が出現しているという。長いしなやかな肢体を持ちかつグラマラスな彼女たちは、パンツ・スタイルで街を闊歩し時には大型バイクを乗りこなす。しかし、自らの生き方を意思的に選ぶ彼女たちが「アマゾネス」と呼ばれた瞬間、そこに私は、ギリシャの神殿に彫られた「ヘラクレス」によって退治される「アマゾネス」を思い起こさずにはいられない。