Fの悲劇

高橋 勇
(慶應義塾大学大学院)

 

J・R・R・トールキンが、竜や妖精が棲まう魔法に満ちた領域のできごとを記す形式を「妖精物語(fairy stories)」という言葉で表現したのは1939年のことである。半世紀以上を経た現在、私たちは「ファンタジー」なるカタカナ語を手にするに至った。いまやいつでもどこでも、この言葉が目に飛び込んでくる。しかし日本では実際のところ、いったいどのようにこの「ファンタジー」という分野が形成されたのかを示してくれる、まとまった形の案内書は作品ガイド以外これまでなきに等しかった。本書『ファンタジーの冒険』は、現在一線で活躍するファンタジー評論家による、待望久しい解説書である。 では何を解説するのか。他の文学ジャンルと同様に、「ファンタジー」もまた明快な定義のできる用語ではなく、本書序章でもそのことが繰り返し述べられている。しかしここでの著者の姿勢には揺るぎがない。その拠って立つところは「現代日本ファンタジーからの視点」である。そして、現代日本に氾濫するファンタジーが欧米大衆ファンタジーの吸収の上に成り立つものであるために、私たちは日本の「ファンタジー」の由来をも、その起源に求めなくてはならない。

こうして、第一章ではジョージ・マクドナルドなどのイギリス幻想文学が、第二章ではアメリカのパルプ・フィクションとイギリスの「インクリングズ」が、第三章ではペーパーバックの黄金期におけるファンタジーとアーサー王文学が、第四章では五・六十年代から始まるフェミニスト・ファンタジーが、そして第五章において八・九十年代の欧米ファンタジーが概観される。どのように「ヒロイック・ファンタジー」や「剣と魔法」と呼ばれる作風が確立されていったのか、それがいかにしてペーパーバックを媒体に急速に大衆文化として成長していったのか、そしてまた、それが現在どれだけ広範囲に拡散し、種々雑多のサブジャンルを構成してしまったのかといった諸点について、極めて明快にまとめられている。同種の解説書に比べても、重要作家に関する詳細な記述や、RPGなど他メディアへの目配り、あるいは現在に非常に近い時点までを扱っているという点で、ひときわ有用なガイドになっているといえる。 最終章である第六章で、ついに私たちは現代日本のファンタジーに帰ってくる。前五章を踏まえ、今、ここのファンタジーを理解するために。しかし、ここで読者はことによると「裏切られた」とすら思うのではあるまいか。それは、これまでのストーリーからの「逸脱」とでも言うべきものが、ここでは見られるからである。例えば第四章のような、通 史の中に「フェミニスト・ファンタジー」というサブジャンル論が挿入されているといった意味での逸脱ではない。第六章では、それまでに提示されてきた「ファンタジー」というジャンルが、丸ごと無化されているのである。

採り上げられている作品の一部を挙げてみよう。山田詠美『アニマル・ロジック』、大原まり子『吸血鬼エフェメラ』、引間徹『地下鉄の軍曹』、佐藤亜紀『バルタザールの遍歴』、酒見賢一『後宮小説』…。これらの作品はどれも(『バルタザールの遍歴』は難しいところだが)第五章までに概観したジャンル・ファンタジーの直系とはいえないものばかりである。この著者の姿勢は、ファンタジーのジャンル観がブルース・スターリングの提唱する「スリップ・ストリーム」のジャンル観と極めて近い、という観測に基づく。大きく捉えれば、幻想的なものが登場しさえすればそれをファンタジーと呼べるわけで、さまざまなジャンルを横断して製造される作品群を指すスリップ・ストリームというジャンル観とファンタジーのそれとは、根本的に似通 っているのである。スリップ・ストリームとしてのファンタジーの特徴は、現実と「対立する」幻想を描くことによって、逆に「現実」というものの定義を根底から問い直していることであると著者はいう。ここに採り上げた作品のように、「現実」に対して様々な形式をもって揺さぶりをかけるのが「ファンタジー」であるとの宣言で、本書は締めくくられている。

これは「裏切り」だろうか。いや、ある意味でこれは不可避のことなのだ。著者は序章で、現代日本ファンタジーの視点からファンタジーを俯瞰すると言った。一方、いまやファンタジーに限らずあらゆる文学作品が、作品内容におとらず、時に内容以上に、方法論を確立せねば立ち行かなくなっている。R・E・ハワードやトールキンの後継者たるをもって自任するだけではいけない。ジャンル・ファンタジーの枠の中で、郷愁や自己満足に浸ることはすでに許されていない。まさしく、ファンタジーの悲劇とでもいうべき状況であり、著者はそれこそが現代(日本)ファンタジーの現状なのだと喝破する。

そしてまた、この状況を読者に突きつけるために、著者は私たちの「ジャンル・ファンタジー」に対する思い込みを巧みに利用した。すなわち、欧米大衆ファンタジーの系譜を丁寧にたどると見せかけ、その実、それら様々なファンタジー作品に見られるありとあらゆる要素を全て含む総体としてファンタジーを再定義し、ジャンルとしてのファンタジーを解体してしまうのである。かくして私たちは、出発点からは予期されてしかるべき『グイン・サーガ』論に出会うことはなく、気がつくとジャンルという道標の消え去った荒野に放り出されていることになる。本書の表紙見返しには「一九世紀から現代まで歴史的な文脈に即してわかりやすく解説する、最新のファンタジー入門書」とのあおり文句がある。しかし本書はファンタジーというものをわざわざ「わからないもの」にする本なのであって、決して通 常の意味での入門書ではない。『ファンタジーの冒険』は、「小谷真理のファンタジー世界」の冒険へと読者をいざなう、一冊のガイドブックなのである。