奄美大島秋名のアラセツ-ショチョガマと平瀬マンカイ(図版と映像補遺)
                                           野村伸一

 1. はじめに

 2008年9月3日、鹿児島県大島郡龍郷町秋名ではアラセツ (新節) の行事として「ショチョガマ」「平瀬マンカイ」をおこなった。これはいずれも稲の豊作祈願である。秋名は奄美大島のなかでも一番の稲作集落である。当地では稲は旧暦10月に播種、6月に収穫する。そして大島では旧暦8月最初の丙午の日がアラセツとされる。この時期は本土でいう年末である。
 これを年末の農耕祭祀とするとき、7日後にシバサシという行事をするのは注目される。こちらは死霊供養、祓いを中心とした祭儀である。農耕祭祀に祓いの儀が結びつくことは古代中国の臘祭にもみられる(後述、「小考」参照)。 
 ショチョガマのときの歌によると、「西東のにいやだま(稲霊)」を招来している。そしてその年の豊作を感謝しているようである。さらに「やね(来年)の稲」が満ち足りるようにしたいものだと祈願する。また、この際に祈願のことばを唱える。それによると、「トウトガナシ」という神に向かって稲の霊を送ってほしいと祈っている(秋名重要無形文化財保存会作成冊子『記念誌』、1985年)。
 農耕祭祀であるから、農神に当たる神によびかけ、これを招くのは当然である。ここ秋名ではそれは海の彼方からくるものと考えている。午後の平瀬マンカイでは、それがノロ役の女性たちによって表現される。
 朝と晩、満潮時に神を招くというのは東シナ海周辺地域に通有のものであろう。この小さな海島における農耕感謝、予祝の祭祀は八月踊りという芸能を伴っている。この祭祀は南の沖縄諸島におけるシツ(節祭)と同じ性格のものといえる。

 2. 図録

 ショチョガマの祭祀


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*写真は拡大できます。


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図版1 ショチョガマ祭場。階段の上に設置されている。毎年、山から木や竹を切り出して一回用のショチョガマ(語義未詳)を作る。元来は祭儀の前日に準備したが、今は数日前に作る。
図版2 ショチョガマ。当日午前6:05。これを村人たちが「ヨラ(右)メラ(左)」と唱えつつ、足踏みして踏み倒す。
図版3 ショチョガマ。当日午前6:19。日の出とともに踏みつぶす。ショチョガマの歌(後掲)を歌いながら、その時を待つ村の男たち。女性は不可、幼い女子は可。

 朝潮(あさしゆ)満ちあがりや ショチョガマのお祝(よ)べ
  夕潮(よねしゆ)満ちあがりや 平瀬お祝べ
 西からど寄(ゆ)りゆる 東(ひぎや)からど寄りゆる
  西東ぬ稲霊(にいやだま) 招き寄(ゆ)せろ
 今年ある年や 豊年年(かふどし)どありよる
  来年(やね)ぬ稲(にい)がなし 畦(あぶし)枕
 汝(な)きや始めあらぬ 吾(わ)きや始めあらぬ
  昔(けさ)ぬ親先祖(うやふじ)ぬ しつけはじめ
 八月ぬ節や ゆりむどりむどり
  吾きやが二十歳頃や いつむどりゆり
                          (秋名重要無形文化財保存会作成冊子『記念誌』、10頁)
図版4 グジ役がきて供物をあげ、祈願のことばを唱える。秋名の田袋(水田)に米が満ちるようにと願う。
図版5 倒れる寸前のショチョガマ。当日午前6:55。
図版6 踏みつぶしたあと、男たちは太鼓の音に合わせて「アラシャゲ」「今の踊り」などを歌いつつ八月踊りをする。
 ショチョガマの倒れるさまは、稲穂が実りの重さに耐えられず畦を枕にしたことを表現したものといわれる。ショチョガマは今年が豊作であったことを感謝しつつ、くる年もこのようであるようにと祈る祭儀であろう。

 ショチョガマの映像(2分4秒)

 平瀬マンカイの祭祀
 アラセツの午後の行事である。マンカイは、古老によると「招き開くことだろう」という(前引『記念誌』)。祭祀は東シナ海に面した湾の浜辺でおこなわれる。神平瀬、メラベ(女)平瀬という名の岩にそれぞれノロ役、グジ・シドワキ(ノロの補佐役)役の者が乗り、向かい合って、神歌を歌う。その歌詞によると、朝の満潮時にはショチョガマをし、午後の満潮時には「平瀬およべ(お祝い)」をするという。つまりこの祭祀も感謝し、かつ豊年を祈願するものである。
 なお、この際、「今年世ぬ変わて おとまらしゃへんで(今年は世の中が変わって不思議なことに)」「いしょぬ あやそびぬ あげ(陸)ばぬぼて(磯の魚が陸に上がった)」と歌われる。保存会長の隈元吉宗氏によると、アヤソビは単なる魚ではなく人魚のようなものを指すのではないかとのことである。いずれにしても、これは海の生き物(あるいは海神)も秋名集落の豊作を予祝しているということであろう。祭祀全体が農耕の感謝、予祝祈願ではあるが、海辺の村という自然環境の特徴も反映されている。ちなみに、福建省の祭祀芸能では観音の誕生日に龍王が馳せ参じる場面がある。


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図版7図版8図版9 祭祀に先だち、神平瀬にカシキ(赤飯)を供える人が何人かいる。赤飯は新米で作り、珊瑚に挟む。供物を置いたあと、海に向かって感謝の拝礼をした。これは女性だけがする。
図版10 祭祀に先だち、インガ(男)平瀬に男児を乗せる母親。子供の健康、成長祈願。女児はメラベ平瀬ら乗せる
図版11図版12 神平瀬に乗った五人のノロ役。神歌を歌い、豊作を祈る。
 
 玉ぬ石登てィ 何の祝取りゆり
   西東ぬ稲霊(にいやだま) 招き寄(ゆ)せろ

図版13図版14 ノロ役たちに向かって神歌を歌うグジ、シドワキ。彼らは、ノロたちが「夕べの満潮に合わせて平瀬の祝いをしよう」というと、「不思議な世で魚が陸に上がった」と歌い返す。

 今年世ぬ変(かわ)て おとまらしゃ(ふしぎじゃ)ヘンデ
  いしょ(うみ)ぬ アヤソビぬ(さかなるいが) アゲばぬぼて(おかにあがってきた)
                               (秋名重要無形文化財保存会作成冊子『記念誌』、12頁)

図版15 歌のあと、ノロたちは海の彼方ネリヤの神トートゥガナシに向かって豊年を祈願する。このときの唱えごとは朝のショチョガマのときと同様のものだという(『記念誌』)。
図版16 ノロたちが祈願するあいだ、グジたちは岩の上で八月踊りをする。

 ヒラセマンカイの映像(1分39秒)

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図版17図版18 岩から下りたあと、ノロ、グジ、シドワキらがともに浜辺の空間でスス玉踊りをする。歌詞はスス玉のように稲がよく実をつけるようにと祈る内容である。ここには保存会長や祭祀の後継者たちも参加する。
図版19 浜辺では村人たちの宴がつづ。。
図版20  6時過ぎからは公民館の脇の広場において八月踊りがある。徐々に人が集まってくる。
図版21 2時間ほど踊ったあと、最後に「しゅんかね」の曲から六調に移る。三味線の早弾き、太鼓の音に合わせて皆が浮き浮きと踊って終わる。保存会長隈元さんによると、人の集まりはずいぶん減ったという。しかし、居合わせた人に限っていうと、大人から子供までいて雰囲気はよかった。

 六調の調べ(47秒)

 3. 小考

  1. アラセツは1年の折り目の行事である。これは沖縄北部のウンジャミやシヌグ、八重山のシツ(シチィ)と同じ性格の祭祀である。なお、大部志保は近年の論文で、秋名のアラセツ行事と沖縄のシヌグ・海神祭を比較して「多くの共通点」をみいだしている。基本的にその視点は首肯できる(大部志保「稲魂の送迎と祖先祭祀について-シヌグと海神祭と-」『西南学院大学大学院「文学研究論集」』第二十四号、2005年)。
 2.
 アラセツは中国の年末の総合的な祭祀である蜡祭や臘祭を基にしてみるとよく理解できる。蜡祭と臘祭は元来、別のものであったが、漢代には同様のものとみられていた。
臘祭は農耕感謝祭である蜡祭と鬼神(祖霊を含む)祭祀を包括するものと考えられる。そして、その前日には儺がおこなわれる*15。
  *15
 中村喬「臘祭小考」『立命館文學』、立命館大学人文学会、第 418~421号、1980年。

 3. 
中国の年末における「農耕感謝」、「予祝の祭儀・祖霊迎え」、「祓え、鬼神追却」の三つの祭祀、すなわち狭義の蜡祭、祖霊などの鬼神をまつる臘祭、悪鬼を逐う儺儀は密接に結びつく。
 4. 
秋名のアラセツでもこれらの要素がみられる。すなわち、アラセツ前日の先祖迎えと儺のあそび*16、ショチョガマ[狭義の蜡祭、豊作感謝]、ヒラセマンカイ(農神迎え、きたる年の予祝)[以上臘祭]、そののちのシバサシ[コスガナシ(客死した祖霊。祟りの強い霊)供養、鬼やらい、魔除けを含む。広義の儺儀]。そして、これらには、いずれも八月踊りという歌舞が伴う。

  *16 秋名の先祖供養はアラセツの前日(「アラセツのつかりの日」、乙<きのと>の日)におこなう。各家で,表座敷にゴザを敷き、「高祖がなし」を迎え、供物をあげて祈る。そして若い男女が「仮装や花衣裳にアンガメ姿などして村の1番戸から2番戸へと松明を先頭にツヅミ太鼓をうち鳴し蛇味線<さんしん>をひいて」、家廻(やまわり)歌を歌いながら巡った。迎える家では「祈祷払い(きとうはらい)」という趣意もあり、酒肴でもてなした。みなで「無事息災を祝い庭ではヤワシ踊りなど」をした。これを夜通しやり、このあとショチョガマの場に臨んだ(秋名重要無形文化財保存会作成冊子『記念誌』、1985年、7-8頁)。以上のことから、この日は先祖(高祖がなし)迎えと儺儀(祈祷払い)がおこなわれたことは明らかである。それは歌と踊りにより賑わい、「現在の種下ろし行事よりももっと盛んなもの」だったという。

 5. さらにほど経てドンガ(墓参、改葬)がなされる。このときには洗骨改葬もある。これは死霊祭祀の延長といえる。こうした死者霊の来訪は東方地中海地域の年末,年始には普遍的にみられる。
 6. 
以上は、一連の行事である。現地では、アラセツ、シバサシ、ドンガの三つを総称してミハチガツとよぶ。小野重朗はアラセツにシバサシが付加されたとみた*17。それは臘に儺戯が結びついたものとみれば、首肯できる。以上の奄美の一連の祭祀は中国の年末の祭祀「臘祭」「儺儀」が分化、変容していくのと同じ状況にある。
  *17
小野重朗「アラシツ・シバサシ小論」『沖縄文化研究』1 、法政大学沖縄文化研究所、1974年、173頁。

 7.
儺儀について。儺儀はのちには1年の最後の日におこなわれた。それは大儺として古代の朝鮮や日本にも伝わった。同時に民間でも広くおこなわれた。年末の儺は儺のあそびとして年初にもおこなわれるようになる。それはさまざまな演戯(百戯)を含む。それは人びとに好まれ、中国では年初の元宵節にも引きつづいておこなわれる。このために年初には多くの芸能が演じられるようになった。
 8. 
奄美のシバサシでは先祖供養、魔物追却、そして夜明かしの八月踊りがみられる*18。これは儺儀が儺戯(儺のあそび)となっていくことと同じものといえる。

  *18 前引、小野重朗「アラシツ・シバサシ小論」、168頁。

 9. 
宮古・八重山のシツ(シチィ)もまた、さまざまな芸能を伴う(たとえば与那国、西表の節祭)。奄美のアラセツは八月踊りだけであるが、八重山では棒や狂言、弥勒舞、獅子舞などがみられる。これらは中国の年初の祭祀芸能と同じ性格のものとみられる。
 10. 
以上を要するに、奄美のアラセツは年の実りを感謝する一年の区切りの祭祀であり、歌と踊りの総合的な祝祭であった。しかもミハチガツのように分化していく形跡も残している。それは明らかに中国の蜡祭の系譜の上にある。          (2013.4.22 補遺)

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