「賤民」の文化史序説ー朝鮮半島の被差別民(補遺)
                                     野村伸一

 * 付記 本論は 「「賤民」の文化史序説」『いくつもの日本5』、岩波書店、2003年、161-190頁の原稿に補訂を加えたものです(2008.10.19)。

  一 「賤民」の文化史  

 賤民ということばは今日の日本において公の場所では用いないことになっているらしく、新聞や放送で見聞きすることはまずない。そして、そのことに対して特に異議を唱える公論もないのをみると、日本文化は大方においてもはやそうしたことを論じる必要もない段階にあるということなのであろう。日本社会にいわれのない「蔑み」に苦しむ人びとがなければそれでもよいわけである。しかし、現実はそうではなかろう。「不適切なことば」を排除し、うわ繕いは念入りだが、次つぎと疼きや痛みに由来する不協和音が聞こえてくる。その声、音が社会のどのような片隅から出てくるのかは予想もつかないが、それが声にならないやるせなさから発されたものであることには違いがない。
 ここで朝鮮の民衆文化史を振り返ってみよう。それは実は「賤民」とされた人びとの声なき歴史と不可分なのである。朝鮮王朝後半には通念として「七般公賤」ということがいわれた。すなわち、それは妓生、内人(宮女)、吏族、駅卒、牢令(獄卒)、官奴婢、有罪の逃亡者である。また「八般私賤」ということもいわれた。すなわちそれは、僧侶、伶人(楽工)、才人(河原者)、巫女、捨堂(社堂)、挙史(居士)、鞋匠、白丁である(今西竜「朝鮮白丁考」参照)。さらに盲人の占い師、漁夫、海女、山尺(山で薬草などを採る者)、各種の匠人、私奴婢なども賤民視された。
 この人たちをめぐる少なくとも五百年の文化の歴史は、朝鮮の社会生活史そのものである。もちろん今日、賤民などということばは仮初めにも対人関係において使ってはならず、その意味では見慣れぬことばであってよい。しかし、それは歴史の上で、かれらの正確な位置付けがなされていればのことである。賤民とされた人びとは歴史のはじめからそうであったわけではない。その大半は朝鮮朝のはじめには良民の類いであり、単に儒教の礼儀に則った暮らしをしなかっただけなのである。高麗時代、白丁は良民を指すことばであった。また朝鮮朝の初期の賤民は公私の奴婢だけであった(劉承源『朝鮮初期身分制研究』)。
 それでは、この人びとはいかにして「賤民」とされていったのか。これは朝鮮王朝の一貫した王化、あるいは教化の政策が王朝後半になって副次的に産み出したものということができよう。要するに、奴婢に逆賊または囚われの敵対者といった規定があるのと同じく、理由はさておき化外の民とならざるをえなかった者たち、あるいは王化のソトにみずから出ていった者たちが徐々に賤民とされたのである。王化のソトにも相応の共同体はあったが、かれらは王朝社会のなかでは何とも抗弁のしようのない不条理な現実を過ごした。ただし、かれらの内なる世界はどうだったのかとなると、そう簡単ではない。
 たとえば、賤民のなかでも一段と蔑まれた白丁たちは、王朝の後半においては、獣肉の屠畜を半ば独占的に扱い、経済的には蓄えのある者も多かった。かれらは農民たちとは別の「特殊部落」を形成させられたため、その伝承する生活形態は放っておかれた。そうした白丁村の内部で殺牛の前後におこなわれた儀礼は白丁と牛とのあいだに調和の取れた世界があったことを示唆する。まず屠場は清浄にされ、僧の念仏があり、牛に対しては手斧で急所を二度打ってすみやかに死なせてやる。そして神聖とされる左手に神の杖(刃物)を持ち、牛の霊魂の済度を果たすためには鋭利な刃を準備する。こうしたことの一端はたとえば、白丁への鎮魂ともいうべき鄭棟柱の作品『神の杖』にえがかれている。
 しかし、その白丁についても近現代からの遡及が大半であり、近世の実態はよくわからない。同じことは他の賤民についてもいえる。さて、それでは問題をどのように設定したらよいのか。わたしは、賤民の大半は朝鮮王朝のはじめにはいなかったと考える。そこで、分岐点となった朝鮮王朝初期の、いわばまつろわぬ民を取り上げてみたい。かれらの歴史は、今日、韓国において比較的偏りのない目で研究されるようになった。にもかかわらず、なお十分とはいいがたい。いわんや朝鮮社会に対する体系的な教育のない日本では白丁や妓生に関するいくつかの論があるばかりで、その先はないに等しい。朝鮮社会における「賤民」は異邦人あるいは共同体のソトの者たちの「同化」に伴う葛藤の歴史でもあり、それは今日の東アジアにおいて再現している問題でもある。しかし、日本では「賤民」を封印したことにより、かれらの生活史などは 皆目、見当がつかないというのが実情であろう。
 この封印状態に対する感受性の無さは何にたとえたらよいだろうか。想像力を喚起するためにはこんな比喩が必要かも知れない。教室で机の上に飛び乗り天真爛漫に遊ぶ子供がいた。それは確かに度を越していたが、咎める者はいなかった。だが、ある日、厳格な先生や父兄が現れた。そして、その行儀の悪さは人並み以下の恥ずべきことだと寄ってたかって詰った。…そういえば、その子のことばはどうも共同体の並のことばとは違う。しかも、およそしつけがない。親の生業はしがなく、一家は貧しいし、やることは何やら怖い。
 あとは推して知るべし。監視をするか遠ざけるかだ。かれらの生活とこころの遍歴、それを取り巻く人びとの光景はこんな風に喩えられるだろう。そして、わたしたちの多くはかつてはまだどちらの立場にも多少の覚えはあり、十分、分かり合えたのである。では、その「かつて」とはいつか。歴史の上では五百年前のことであるが、心象としてはずっと近い過去でもある。ここでは限られた紙幅のなか、「賤民」史の序をかたることにしたい。

 二  広大の登場
 
 どの賤民からはなしたらよいのか知らない。それならば、ひとつクァンデ kwangde (広大)の話からしてみよう。クァンデは高麗末に現れ、朝鮮朝を経て近代まで演戯をつづけた芸能者である。一九世紀はじめ頃にはなおさかんで市井の男女を巻き込み、世の秩序を乱す不逞の輩とされていた。実学者丁若鏞は『牧民心書』刑典の第五条禁暴のなかで「俳優の戯、傀儡の技、儺楽の募縁〔勧進〕、妖言売術者は並びにこれを禁ずる」と記した。そしてさらに、南部の吏属と将校らは奢濫の風を成し俳優滑稽の演戯と傀儡戯にあそびほうけている。みずからがあそぶので、民も罔くそれに加わり「士女奔波、荒淫無度」のさまである。そのため倉庫の税穀も盗まれる。こうした「雑類」は立ち入りを禁ぜよと。
 この種の警告は何十何百と出されていたに違いない。しかし、かれらは社会的に貶められながらも市井にありつづけた。以下では、警告や禁止の条文を実録中に探し出すのではなく、かれらクァンデとはいったい何者だったのか、歴史にはじめて現れたときの姿を通してそのころの位相を突きとめておきたい。
 朝鮮民俗学の先駆けであった宋錫夏は一九三六年『朝光』に「広大とは何か」を書き、「広大という言葉は、日常よく聞くことばであり、また、およそどんな意味か推測できるが、それをもう少し深くはっきりと解釈しようとすると、輪郭が曖昧になる」といった。そして、冒頭に『高麗史』巻百二十四嬖幸二、全英甫列伝を引用した。以後、多くの広大論が書かれたが、この『高麗史』の記述がクワンデの初出ということは動かない。ところがこの記事は短い挿話仕立てで、解読はやさしくはない。そこでまず、この記事を引用しよう。時は一三世紀末から一四世紀初、高麗が元の支配下にある最中のときのことである。
全英甫は本、帝釈院の奴で金箔を治めることを生とした。かれは元の嬖宦(宦官)李淑の妻兄である。李淑が嘗て王惟紹と党をなし忠宣王(一三〇九-一三)を廃する謀をしたため、忠宣王は王惟紹を誅し、全英甫を家産没収、島流しにした。初、忠烈王(1275-1308)が全英甫に郎将〔正六品武官〕を授けたとき諫官は告身に署名しなかったが、忠宣王の復位後二年に大護軍を授けると、署名された。世論は国王の治世が公平になされるのか憂えた。案の定、全英甫は「有能」の誉れの高い白元恒を私怨から島流しにした。忠蕭王(一三一四-三〇)のとき、全英甫はまた立身の道をたどり官位を得たが、臺諫(理非をただす高官)がやはり署名を拒否した。だが、忠蕭王の計らいで全英甫は結局、評理、賛成事の位についた。
 ところで、この忠蕭王が元に留まっていたとき、瀋王の暠(異腹の兄)が王位を奪おうと謀をして奸臣と交構わった。このとき国王は臣下を宰相〔元の宰相か〕のところに遣っていわせた。昔、小広大がいて大広大らに随って水を渡るとき、船がなかった。それで小広大は、この大広大らに「我は短小なので河の深浅を知ることは難しいが、君輩は身が長いから、まず水深を測るのが宜しい」といった。大広大らは咸「然」といい水に入ったところ、皆、溺れ、独り小広大だけが免れた。
 ここで忠蕭王は次のようにいった。今、二人の小広大が吾が国にいる。全英甫と朴虚中がそれだ。吾を禍網に置き、晏然と座視するのは小広大そのものだと。そして『高麗史』は「国語仮面為戯者謂之広大(国語では仮面にて戯を為る者を広大と謂う)」と注記した。
 ここに当時のクァンデの一面がえがかれている。この短い記事は次のように読むことができるだろう。第一にクァンデには大小の別があった。それは身の丈の区別だけではなく、人となりについてもいったものとみられる。大広大は一見、愚鈍のゆえに死んだかのようだが、愚鈍なだけではクァンデは務まらなかった。それについてはあとでまた取り上げる。
 第二に全英甫のような者が国王の周辺にいた事実に注目しなければならない。かれは奴から身を起こし武官となって国王の寵愛を受けた。何回かの浮き沈みをくり返し、最後は「良人百六十人を賤とした」ことが露見し、そのために本籍に戻された。つまりまた奴の身分に落ちた。全英甫にいかなる能力があったのかはわからないが、元の嬖宦と縁戚関係があったことが背景として考えられる。そしてまた口先の巧みな策略家だったのだろう。低い階層から身を起こし舌先三寸で国王の周辺にまで行き着いたことがまさにクァンデの境遇・弁舌にたとえられたのであろう。クァンデもまたそうした浮き沈みを免れない者であったが、同時に国王の周辺にクァンデがいることは日常的な光景だったとみられる。
 第三に国王を取り巻く文化的な環境に注目すべきである。それは元の王室の環境とさほど違いがなかったとみられる。そもそも祖父忠烈王が元の正祖の公主を后とし、母(父忠宣王の妃、懿妃)も蒙古人であり、自身(忠蕭王)の妻もまた蒙古人であった。高麗王家は実質的に元帝あるいはその公主(王女)らの意向をそのまま受入れるほかはなかった。政治はいうまでもなく、殊に宗教、文化的な装置は元からはいってきていた。忠烈王九(一二八三)年八月には「元の倡優男女来る、王、米三石を賜う」とあり、その優人らは大殿において「百戯を呈した」(『高麗史』世家)。忠蕭王が国内の政争に危機を感じ、元の宰相に対してクァンデの話をかたらせたとき、国王の身近には真にクァンデとよぶに値する者たちがいたはずである。
 第四に、『高麗史』の注記にある仮面戯の広大こそはクァンデの真の姿をものがたるものであった。問題は宋錫夏以来、上記の原文を「朝鮮語で仮面戯をする者を広大という」と解したことである。これについて鮎貝房之進はいう、古来、朝鮮語の意味では俚語、方言などと記したのであり、「国語」をその意味で用いた例はなく、従ってこれは「蒙古ノ国語」というべきだと(『雑攷 花郎攷・白丁攷・奴婢攷』)。この鮎貝説は検証されることなく今日に至っているが、『朝鮮王朝実録』の用例をみても首肯できる。実録では国語の用例が二十一例みられるが、一例を除くといずれも中国の古典『国語』に言及したものである。ところが唯一、別の用例が正祖二三(一七九九)年五月甲申の条にある。それは清朝第六代乾隆帝の死後、その事績を讃える文を献上したときのこと、そのなかで乾隆帝は「三国の歴史を糺すべく遼、金、元の国語を翻訳した」という。『高麗史』(15世紀前半編述)を編纂した鄭麟趾(1396-1478)らは王朝初期の新進の儒学者で、中国の用例を知っていたはずである。そしてその伝統は朝鮮後期にいたっても守られていた。こうしてみるとクァンデはやはり「元の国語」とするべきである。
 第五に元からやってきたクァンデたちは百戯だけでなく、仮面戯を持ち込んだ。そして、そのとき以来、朝鮮の芸能文化は大きく変容していく。その過程は本稿では扱う余地がないが、ただ、クァンデの歴史は異邦人が農本の国に到来したときの典型的な道筋をたどったということだけは述べておきたい。ここにふたつの道がある。ひとつは朝鮮王朝の初期、中期にかけて記録された悪辣な徒党としての才人の歴史をたどる道である。ひとつは歴史の表面からは消えたが、仮面戯、傀儡戯などを世々演じた芸能集団として、その歴史を考える道である。かれらは前述の丁若鏞の記述にもあるように、一九世紀のはじめに至っても民衆の支持を受けていた。しかし、それがまともに歴史に記されることはなかった。
以上のことを踏まえて、ここから先、わたしは後者の道に意味をみいだそうとおもう。何よりも、前者の道は負の集積でしかない。それらは事実あったことだとしても、それだけのことではなかろうか。もちろん不祥事、反抗的な事件には必ず相応の原因があり、それを通していかにひどい抑圧と不条理が横行していたかを糾弾することはできる。だが、それよりも後者の世界を選ぼう。わたしたちはそれをまだ少し瞥見しただけなのである。急ぐべきは、その痕跡があるうちにひとつの歴史をたどりなおすことではなかろうか。
とはいえ、残された資料は少なく、大方は否定的言説である。ここにおいて、わたしは、仮面戯のクァンデに立ち戻ろうとおもう。かれらは一般の俳優の伝統の上に立っていたが、それだけならば古代からの百戯、雑戯の担い手にすぎない。クァンデは何よりも元から到来した新しい優人であったと考えられる。かれらは追儺的な祓いの仮面戯に新機軸を盛り込んだ。朝鮮にも古くから仮面はあったに違いない。それは新羅の憲康王のときに、南山の神の舞を表現した霜髯舞(白髪、ひげ面の神の舞)がおこなわれ、そのあとで仮面が作られたことからも明らかである(『三国遺事』)。また年末の大儺にも素朴な厄払いの仮面戯があっただろう。だが、こうした仮面の舞は祝祷と祓いを主としたもので新たにもたらされたクァンデの仮面戯とは異なっていたとみられる。それでは新しい仮面戯とはどういうものだったのだろうか。

 三 河回仮面戯の人びと


1村の女神閣氏。

2慰霊。婚礼につづいて初夜の共寝も演じられる。徐淵昊『ソナンクッ仮面戯』より。


3白丁。撮影金秀男。

4牛の睾丸を売る白丁。撮影金秀男。

5両班と学者のあいだで睾丸の効力を吹聴する白丁。撮影金秀男。


6チョレンイ。両班の従者で奇妙な道化。撮影金秀男。

7僧面。撮影金秀男。

8若い女と僧。東アジアでは由緒深い演戯。民俗のなかの僧は好まれる。

9巫女のような老婆が祭祀の場に到来する。


10学者面相は精鬼に通じる。もとは若くして死んだ男の鬼神なのか。撮影金秀男。

11両班のカオは好々爺然としている。撮影金秀男

 慶尚北道安東郡河回洞の仮面戯は高麗中期(李杜鉉)、あるいは後期か末期(一三-一四世紀、徐淵昊)に形成されたとされている。仮面の造形、河回の同族部落の変遷伝承と仮面制作にまつわる伝承などがその根拠であるが、わたしは、さらに次のような理由から『高麗史』のクァンデの登場から前後それほど遠くない時期に形成されたと考える。
 それは二点に集約される。第一は、この仮面戯の宗教的基盤に女神の慰霊があり、これは当時の東アジアにおいては新しい観念だったということである。すなわち、伝承では一五歳で嫁いで、子供もなく不幸な死に方をした女性をムラの女神とし、その臨時の鎮魂に最大の根拠を置いていることである。こうした女神が城隍神とされたことは決して古代的な祭祀ではない。それはむしろ、山川への祈祷という例年くり返されてきた古代的な祭祀の上に付加された新しい供養なのであった。ちなみに中国でもやはり、同族祭祀において不幸な死、特に女性の死の弔いが重要なこととなり、のちにはそれを主題とした戯曲(南戯)が発展したが、その萌芽は宋から元にかけての時代であった(田仲一成『中国演劇史』)。こうした死霊供養は葬戯あるいは儺戯に由来するが、これが元のクァンデの演戯の根柢にはあったとみられる。それは宋代の中国に広がった都市文化および仏教文化に由来するものである。
 第二に、この仮面戯はムラの女神の慰霊とはいうものの、登場人物がほとんど有象無象の類いだということである。これはやはり霜髯舞などの次元とは別のものである。今日、伝承が錯綜した部分もあるが、河回仮面戯には屠牛の白丁(異本では死刑執行人も登場)、チョレンイ(おどけた儺者)、顎欠け面で片足麻痺のイメ、僧とプネ(妓女)、身寄りない老媼、虚仮にされる両班などが現れる。この登場人物は互いに皆、連環しているようにみえる。白丁は朝鮮王朝中期以降は隔離されたムラで主として屠牛、柳器作りに限定され、良民と交わることもなく蔑まれて生きていくが、河回仮面戯の白丁はまったく別様のイメージである。堂々と跳び回り手斧で牛を一撃のもとに倒し、すぐさま睾丸を取り出す。そして精力増強に良いといって観衆に向かってこれを売らんかなとすると、愚かな両班らが争って買う。無論、人びとは哄笑するが、それは決して嘲笑ではない。これはのちに白丁とされた人びとがまだ社会的な差別を受ける以前の姿だったとおもわれる。かれらは高麗時代は楊水尺、次いで水尺とか禾尺とよばれていて、その出自は胡種(成宗二二(一四九一)年四月戊辰)とみられていた。かれらを異邦人とする見方は『高麗史』列伝趙浚(1346-1405)の項にすでにあり、「禾尺、才人は耕種に事えず民租を坐食し、恒産も無く恒心も無く山谷に相聚まって倭賊を詐称し」ているという。そしてまた「韃靼と禾尺は屠牛をもって耕食に代える」といっているから、高麗の末期にかれらが農本の立場からみると別の存在とされていたことは明らかだ。ただ、一方では州郡、站では「皆、牛を宰って客を饋した」というのであり、禾尺らはなお人びとのあいだで大っぴらに活動していたのであろう。
 さて、僧が妓女を見初めて睦び合う演戯は宋代の人気ある演目のひとつであった。「耍和尚」がそれで、中国におけるこの前史には唐以来の婆羅門舞の伝統があり、のちには「大頭和尚」として正月の民俗となった。僧の「破戒」は朝鮮でも日本でもひとしく人気ある演戯で民衆の支持を受けた(『新猿楽記』にそれらしきものがある)。これを仏者の破戒への教訓、また特権化した寺院への諷刺としてもよいが、朝鮮の巫儀「世尊クッ」のなかのあそびにあるように、元来は山からきた高貴なるカミが若い女に新生を授ける演戯というべきであり、江戸期に京都に現れた仮装の「ちょろけん」などもやはり同類であろう。中国浙江省の民俗でも元宵のころに、大頭和尚の演戯をすると、厄除けになるといわれている(俞婉君『紹興堕民』、人文出版社、2008年)。単なる余興でなかったことは確かである。
 次に身寄りのない老婆。「両班の家で下仕えの暮らし」をしたことを身世打令で歌うので、そこには本来の「賤民」奴婢の哀感が込められている。ただ異本によれば、この老婆は亭主と離別して全国を漂泊している女性で、あるいは他の仮面戯を参考にすると、歩き巫女のような者であったかもしれない。実際、高麗末期の開城には巫がいて今日あるような鳴り物入りの巫儀をしていた(李奎報「老巫篇」)。また朝鮮王朝初期には共同体を離れて尼僧になったり、勧進行為をして歩く社堂などの女性が多数いた。もちろん、その暮らしは不安定であり、中には道倒れして死ぬ老媼もいただろう。果たして仮面戯の老媼は空しく死ぬ者が多い。弔いの儀をもたらす配役といったらよいだろうか。
 河回仮面戯の登場人物はこのようなモノたちであった。こうした雑多な登場人物をひとつの枠のなかにおさめることが果てして可能なのだろうか。それが実は新しいクァンデの演戯のなかでおこなわれたのだといえる。これは宋代の「社」を中心に形成された死霊祭祀のかたちと関係する。田仲一成は宋代郷村の市場の廟を中心に「社会」が形成され、そこで三種の孤魂祭祀がみられたという。第一は正月春節の豊饒儀礼に付随する孤魂祭祀、第二は廟の神がみの誕生日におこなうもの、第三は臨時の大規模な孤魂祭祀で九幽醮とか黄籙斎とよばれるものである(『中国演劇史』)。河回仮面戯は別神クッという十年に一度ほどの臨時の祭祀のなかでおこなわれていて、まさに九幽醮の思想を根柢に持っていた。
 九幽醮は道教の斎醮のひとつである。北宋の撰者未詳の「黄籙九幽醮無碍夜斎次第」では孤魂の種類を一二取り上げた。国のために死んだ英雄、文臣、客商、仏僧、道士、工匠、苦役に死んだ者、冤死者、反逆者、犯罪者、自殺者、横死者である。さらにこの数は南宋に至ると二四にもなる(『中国演劇史』)。ところで、同じようなことは仏教でもいっていた。『瑜伽集要焔口施食儀』の末尾には「十類孤魂文」があり、そのなかでは「一切の奴婢、給使」にして貧賤に命を委ねた孤魂、「一切盲、聾、瘖唖、足跛、手なえ」など、また、やもめの身で寄る辺ない孤魂などがあげられた(服部良男『『施餓鬼図』を読み解く』)。この仏教側の救済の視点は水陸会としてすでに南北朝時代にみられた。水陸会はやがて唐末五代以降には隆盛し、実に近現代に至るまで中国の寺院ではこれが維持され、寺院経済の源となるほどであった。もちろん朝鮮にも水陸会は伝わり、民間の巫俗儀礼にまで浸透した。
 こうした済度の観念が河回仮面戯の登場人物たちの根柢にあったと考えるのは無理ではない。朝鮮王朝の初期には、山野における施食が問題視され、その禁令がたびたび出された。世宗は、僧徒と士女が音楽を奏で「百種施食」といって死者供養をしたことをきいて激怒した(世宗二七<一四四五>年七月丙戌)。朝鮮朝のこの施食は高麗時代に受容した水陸斎〔水陸会〕を受け継いだものであるが、もとは宋代の孤魂野鬼に対する済度の儀であった。なぜそうしなければならなかったのか、それはムラ、地域共同体にとって寄る辺ない者の死が災厄を引き起こすとみなされたからである。儒者の合理主義からいえば、野垂れ死にした者のために浪費に満ちた呪いをしたところで、天災や飢饉は防げないし、鬼神への施しといって飲食物を水に投げ入れるのは愚昧の極みであった。しかし、天災や飢饉は身寄りのない死と関係があるとみて最後までこの施食の儀をおこないつづけたのが、宋元代以降の東アジアの民衆思想であった。これは祭儀としては道士や巫覡に担われ、また祭祀芸能としては儺者、クァンデにより担われ、わけても女性の世界に浸透した。そして、同時代の朝鮮と日本に伝わり仮面戯や傀儡戯として花開いたのである。日本の能楽が「男女の根をかくす事」もない不埒な法体の芸能者の唱導、田楽のようなものの集団的狂躁、そして勧進などの上に現れてきたことはすでにいわれている(松岡心平『能~中世からの響き~』)。これは高麗時代の末期の芸能空間でもあった(ちなみに盛田嘉徳『中世賤民と雑芸能の研究』によれば、一七世紀初になお「高麗人」や「唐人」の放下が貴顕の邸に参候した例がある)。
 そうした芸能の根柢にあるものは孤魂野鬼の済度であった。ただここで、より一層注目されるのはその済度の儀に生命の胎生という演戯が付加されたことである。中国でも水陸会の儀のなかに子を授ける図像がみられるし、済州島の巫俗儀礼でも「水陸の儀」は子供を授ける寿祷なのである。また全羅道の死霊済度の儀礼中におこなわれたタシレギは出産の寸劇を含んでいるが、これは「再びの生まれ」だとされ、名称からして生命の連鎖を意味していた。宋代の都市で耍和尚が好まれ、それが周辺に伝わり、また民俗化して伝承されたのもこの脈絡の上にある。朝鮮や日本では仮面戯のなかで出産を演じるものがある。
このようにみることによって朝鮮のクァンデたちの相貌がより深く示される。かれらは異邦人であり、また何よりも孤魂野鬼の済度を演戯する新しい芸能者であった。その本質は死霊に近く、滑稽猥雑な演戯とはまったく異なる鬼神の相貌もあった。そしてそのことで畏れられることはあっても、かれらは決して蔑視されるような者ではなかった。

 四 朝鮮王朝の賤民たち

元からきたクァンデの演戯はムラや地域共同体の安寧と生命の連鎖を回復するためのものであった。しかし、朝鮮王朝をはじめた儒者たちはこのような観念は到底、容認しえなかった。朝鮮王朝の初期一〇〇年ほどは、高麗王朝の遺物を清算するのに力を尽した感もある。特に思想面では仏教とそれにかかわる「淫祀」の類いは容赦なくこれを禁じた。またのちの賤民の生成につながる施策がさまざまに実施されていく。太祖二(一四〇二)年一二月には「公私賤口、工商、巫覡、倡優、妓生、僧尼の子孫で官職を不当に得た者には一切田地を与えぬこと」とした。逆にいえば、この時代まで、かれらの子孫は官職につく者もあったということである。全英甫のような者は珍しくはなかったのだろう。
 また太宗の時代には寺社が革罷され、素性の宜しくない僧は還俗、あるいは地方に追放させられた。農は天下の大本であり、才人、禾尺の類いの非農業民の定着、同化は不可避であった。移動する人びとに対する禁圧は徹底していて、才人、禾尺は「姦淫と盗みをし、殺人もする」(世宗四<一四二二>年一一月丁丑)という評価は末永く引き継がれていて事例は枚挙に暇がない(成宗二<一四七一>年二月辛酉、中宗三六<一五四一>年五月己亥など)。事実としてそういうこともあっただろうが、予断も少なくない。一方では、才人、禾尺を白丁と命名し農民と婚姻させ(世宗五<一四二三>年八月乙酉)、雑処させた(世宗九<一四二七>年一一月辛亥)。あるいは戸籍に載せ、平民や公私賤人と結婚させる(世宗三〇<一四四八>年四月甲子)といった同化策を推進しもした。
 しかし、「才人、白丁」はもともと紘歌、宰殺に慣れていて今なお改めようとしないとされた(睿宗一年(一四六九)六月辛巳)。ここでは才人と白丁が並列されている。この頃以降になると、才人は芸能者、白丁はもっぱら屠畜と柳器造りというように区別されるようになる。とはいえ、元来「白丁」と命名されたとき、そこには才人も含まれていたのであり、両者が全く別の者となったともいいきれない。たとえば、京城の成均館の周辺にいて儒教の祭祀用に牛肉を準備した泮人たちはやはり交婚を忌まれる者であったが、一方で山台劇(サンデノリ)とよばれる仮面戯をおこない、京城だけでなく、近傍の楊州などにもでかけた(秋葉隆「山台戯」)。かれらは屠畜も芸能も担ったのであり、そのありかたはむしろ高麗時代のクァンデ、また朝鮮朝初期の白丁のそれをよく引き継いでいたとおもわれる。 
 才人、白丁の移動は一六世紀半ば以降には大きな問題とならなくなったのだろう。王朝実録の記録は少ない。特に白丁は屠畜を専らとするか、あるいは軍卒として徴集されるようになった(かつて才人、禾尺は済州人とともに軍卒に編入された。『高麗史』世家恭愍王五(一三五六)年)。ここで注目されるのは朝鮮朝後半になると、「大抵の陸民は海夫を視ること殆ど屠牛担と同じ」であって、このため一度海夫として登録されると平民と相抗うことができず、子孫は皆、身分を隠そうとしたことである(正祖二四(一八〇〇)年四月戊戌)。この前史は済州島出身者に対する視点として一五世紀にすでにみられた。すなわち「済州の豆禿也」 という者たちが慶尚南道の海岸で船住まいをしつつ魚を捕りワカメを採取しているが、かれらは海辺の掠奪者になりうる者なので徐々に手なづけるようにという趣旨の訓令が出されている(成宗八(一四七七)年五月己亥)。
 これとは別に済州の海民は「鮑作干」とか「鮑作人」ともよばれ、やはり倭寇に類いする者とみられていて、離反させないようにということばが王から出されている(成宗一六(一四八五)年、同二〇(一四八九)年)。かれらは貴重な鮑を採って進上する者なので一方では有用であった。またかれらには「頭無岳」とか「頭禿」という別称もあった。そして倭賊に匹敵する船の使い手で活用すれば有益だとされた(成宗二三(一四九二)年)。頭無岳は漢拏山の別称だが、頭禿はあるいは坊主頭に由来するのかもしれない。中国宋代には、僧、尼、老翁、小児、優伶、角觝(相撲)、泗漁漢(漁師)、打狐人(猟師)、禿瘡(しらくものあとの光った頭)、洒禿(すっかり光った頭)は「十様の仏」とされた(浜一衛『日本芸能の源流 散楽考』)。すなわち坊主頭の者たちで、これらの大半がやがて一人前の良民の部類から区別、差別されていった。そして、良民と区別された者たちの婚姻はクァンデと巫堂(巫女)、白丁と社堂など「賤民」同士のものとなっていく。
 さて、僧、僧尼が民間で祈祷や祭儀をおこなうことはいうまでもなく禁圧の対象であった。しかし、たとえば水陸斎は朝鮮朝半ばになお、おこなわれていて、「都中の士女が撤市し奔波」した(宣祖三九(一六〇六)年六月己亥)。官憲がこうした行為を処罰するのは当然で、その積み重ねが結局、民間の宗教者とその賛同者を社会的に貶めていく。
 朝鮮朝の初期には、「遊女」や「花娘」となる者もすでに多く、ほかにも礼曹の上申によれば、僧の群れに引き込まれ尼となった女たちがいた。また商人らが良家のむすめたちをたぶらかして淫女にすること、無頼漢に伴われた女たちが身を売ることも指摘された(成宗三(一四七二)年七月乙巳)。こうした現象は必ずしも暴力やカネだけで強いられたものではなかっただろう。それは相応に女の側の主体的な行為でもあったとみなければならない。しかし、こうした者たちは「小中華」にあってはならないので取り押さえられた。それは厳しいもので、違反者の行く末は奴婢つまり賤民になることであった。
 同じことは「社長」とそれに従った女たちについてもいえる。社長とは社倉の長である。社倉は朱子のはじめた社倉法にならって導入された民衆救済用の倉庫である。ここに備蓄された穀物を秋に低利で貸し出したが、社長はこの制度を私物化していく。社長は僧であることもあった。また、居士を名のることもあった。お上にとって、かれらは男女の群れをなし、生業を捨てて差役を逃れ、錚と太鼓を鳴らしてどこにでも出歩くことなどの点でとうてい容認できなかった(睿宗元(一四六九)年、六月辛巳)。この一団は当初は京城内で「社」を結成し、そこを念仏所として集団生活をした。かれらは仏道に帰依するだけでなく朝には市利をむさぼり夜は阿弥陀仏を称えた。しかも、こうしたことに街中の婦女子があこがれるありさまであった(成宗二(一四七一)年六月己酉)。だが、居士と社堂は王朝後期には、歌舞と売淫で知られるだけのしがない放浪芸人集団のひとつとなっていく。
 才人、白丁、海民、僧、僧尼、社長、居士、社堂らが厳しく規制されていくなかで、巫覡もまた同様に規制され卑賤視されていく。その朝鮮王朝における記述の分類、整理は李能和の「朝鮮巫俗考」(邦文「朝鮮の巫俗」)に詳しい。詳細はそちらに譲るが、次のことは記しておきたい。すなわち巫覡の祭儀、都城への居住に対して、官憲は執拗に幾度も弾圧を加えたが、高宗(一八六三ー一九〇七)の時にもなお宮中には国巫の出入りがみられたのであり、結局、禁巫の政策は成功しなかった。そしてその根本の原因は根柢に朱子学では代替しようのない民衆(特に女性)の霊魂済度つまり救済があったからである。実際、王朝初期の巫は医員でもあり東西活人院(貧民救済施設)で医療行為もした。理論書も組織もなく、文字も知らない巫覡に何ほどの論理があるのかといった知識人の視点では巫俗を正面から見据えることはできなかった。このようなものが何故五百年ものあいだつづいたのか。
 それへの回答は王朝の知識人からは出されなかった。そして、それは朝鮮王朝の崩壊後、一九二七年になってはじめて李能和により宗教学に値する視点で体系的に述べられた。だが、それすら早すぎたのか、反応はなかった。李能和にももちろん不足はあるが、その一連の業績が、『朝鮮仏教通史』「朝鮮巫俗考」、『朝鮮女俗考』、『朝鮮解語花史』(妓生の文化史)といった経過をたどっていることを的確に批評する者がいたならば、少なくともそこに朝鮮の女性生活史が述べられていたことに気づいたはずである。それは一方で朝鮮の「賤民」史と深くかかわっていたのである。しかし、そうした基軸は今だに明確にはされていない。このことは朝鮮の近代の学知、ということは中国と日本の速成知としてはじめられた近代の学知の系譜が抱えていた最も大きな限界点でもあった(山室信一『思想課題としてのアジア』、その近代アジアの学知に対する俯瞰、周到な検証作業を参照のこと)。

 五 免賤と近代

 知識人の近代、かれらの認識がどうであれ、朝鮮王朝の「賤民」たちにも近代は迫り、やがて通過していった。このときかれらはどのような生活を迎えたのか。ご多分に漏れず、大方はわからない。クァンデについていえば、十七、八世紀以降、パンソリが起こると、この歌い手のなかから芸術家気質の歌客も現れる。それは唯一クァンデが身分の上昇を実現させうる道でもあり、そのために歌唱法も猥雑さを殺ぎ哀調を深く表現する方向へと幅を広げた。これは日本の能のたどった道と一面では似ていた。しかし、そうした歌客は少数であり、大方のクァンデは民間の放浪芸人として世をわたった。特に仮面戯や傀儡戯のクァンデに対しては社会的な評価が低く、宋錫夏なども「広大自身の自覚が必要」といい、「理論家や音楽家との提携」がなければ将来はないとみていた(「伝承音楽と広大」)。
 それは余りにも高望みした批評であるが、近代の西洋演劇や音楽の衝撃を受けた当時の知識人としてはやむを得ないところがあっただろう。ただ、王朝の後半期、両班層の道徳性の欠如、無能ぶりに対して、仮面戯のなかで、愚かな両班が下僕により完膚なきまでに愚弄される場面は、やはり、近代に接近して発展を遂げたものというべきで、そこには時代意識が反映されていたといえよう。もともと、お供が主人をやりこめるモチーフは異邦人クァンデの演戯のなかにはあった。それは中国でいえば、唐代の参軍戯[ぼけ(参軍)とつっこみ(蒼鶻)の対話による演戯]以来の古い伝統であり、高麗の優人、そして仮面戯や傀儡戯のクァンデたちに受け継がれてきたものである(朝鮮朝の燕山君時代の優人は王前にあって諷刺の演戯をし、処罰された。それはこの王の前では命がけのことであった)。そしてまた、日本の猿楽の芸、京都に現れた自然居士らの禅僧にみられた奔放さ、狂言の笑いなどにも同様の諷刺の精神が見て取れるだろう。
 だが、そうではあっても、今日に伝承されている仮面戯の両班諷刺の台詞は、その鋭さにおいて参軍戯や「狂言」のレベルをはるかに越えていた。たとえば下僕マルトゥギは主人に向かって口答えをする。しかもその際、両班の血に両班以外の血が混ざっていると罵り、また「大奥様(母親)」を取り上げては性的な悪罵を盛り込んだことをいう。しかもちょっと聞いただけでは意味がわからない。そこで、また修辞を変えて同様のことをいう。こうして下僕のことばはより強い愚弄となり、ほとんど抵抗のことばになっていく。
 とはいうものの、王朝も消滅し、植民地に放り出されたクァンデらはすべてが旧時代の遺物として生きていくほかはなかった。そのさまは映画『西便制(風の丘を越えて)』に活写された。金明坤扮するドサ回りの歌い手ユボンが宴席で片意地を張る。そのため、客の男から「才人(河原者)のくせして」と罵られる。すると、ユボンは「このご時世にまだ両班だとか才人だとかいうのか」といい返す。それは近代のクァンデらのせいぜいの代弁であっただろう。だが、パンソリをもって回るクァンデの時代は去ってしまった。
 さて、賤民中、最下層とされた白丁の近代はどうであったのか。朝鮮の近代史上よく知られた一八九四年の甲午更張(甲午改革)のなかで、軍国機務処は一二カ条の提議をしたが、そこに「駅人、倡優、皮工、竝びに免賤を許す事」があり、これを国王は承認した。このうちの「皮工」は皮作りを担った者たちで多くの白丁とは職域が異なるが、ここでは白丁も含まれるとみられる。かれらは、これにより強制された仕事からは解放されることになった。しかし、そののちも白丁に関する状況は変わらなかった。今村鞆がいち早く白丁を論じ、継いで今西竜、喜田貞吉、李覚鐘、岩崎継生、鮎貝房之進などが日本語で論究した。
 これらを通して分かったことは、王朝の末期の白丁は戸籍がないので族譜もなかった。名前に仁義などの語は用いることができず、日常生活では、周衣(外套)、被り物、喪服、女性の簪の着用ができず、婚礼時の乗り物、葬礼の喪輿も禁止され、良民へのことばづかいは子供に対してもへりくだった。そして、甲午改革以後、戸籍を与えられたとはいい条、そこには「屠漢」の字が記され社会的な差別は依然としてあった。
 ただ、白丁たちは王朝時代にも「承堂都家」という扶助機関を持っていて、各地に支部があった。こうした組織があったためか、日本で水平社の創立があった翌一九二三年五月、朝鮮でも慶尚南道晋州において衡平社が組織され、平等への宣言が出されると、瞬く間に全国に広がり社員公称四〇万人の一大社会運動となった。それは周囲からの激しい反発を引き起こしたものの、一九三〇年ごろまでは活発に展開された。だが、やがて路線問題から葛藤が生じて、退潮に向かい、一九三五年、名称を大同社と変更したあと、経済活動を主とした機関となり、それも一九四〇年ごろを境に終焉した。解放後は朝鮮戦争の大混乱のなか、白丁の特殊部落は霧散し、社会的に差別されることがなくなったとされるが、白丁を主題にして創作活動をつづけた作家鄭棟柱は現在も「差別意識は残っている」とし、とりわけ知識人のあいだにそれが強いという。そして、晋州に衡平運動の記念館を作り、白丁の暮らしと歴史に関する資料を展示することを提案したが、衡平運動の研究者として知られる知識人がそれに異議を唱えたということをいっている(『神の杖』)。それだけ白丁の問題は生々しいということなのだろう。今日なお、晋州市に公設の記念館はない。

 六 考えるよすがとしての「賤民」

 朝鮮半島では解放後も白丁村、才人村、在家僧(咸鏡道の山間部にいた坊主頭の人びとで差別された)の村などが残っていたが、現代には南北いずれの社会にも存在しない。ただし、白丁や巫堂の家系への差別的視点がなくなったわけではない。差別意識が払拭されたか否かは世代、地域によっても異なるだろう。みずからの姓氏が偽両班家門だと公表した歴史家がいるとはきいたが、白丁、巫堂の家系だということを名のることはおよそ考えにくい。できればそうしたことは公にしたくないというのが韓国社会の公約数であろう。そこまで突き詰めれば差別は消えていないということになる。また、近い過去では全羅道出身者が政治経済の中枢から不当に遠ざけられるという新手の差別があったし、あるいは中国の東北地域、延辺などからくる出稼ぎの朝鮮族同胞や東南アジア出身の労働者に対する差別が一部にはある。白丁や巫堂はたとえ、経済的に潤っていても怖い者とされ、おそらくそれゆえだろう、接触したくないといった先入観は強く残っていた。こうみると、近代日本の社会が屠畜、皮革業、あるいはサンカや家船の人びと、また「首切り弾衛門」(死刑執行人)などに対して怖れ差別した状況とあまり変りがないことになる。
 ただし、歴史のなかの差別を公然と論じるという点では明白に異なる。例えば二〇〇二年二月六日、韓国のSBS放送は旧正月の特別番組にドラマ「白丁の娘」を放送した。韓国ではひと頃テレビ報道があまりに批判精神を失ったため、「馬鹿箱」とまでいわれたが、九二年の文民政府以降は考える素材を提供する媒体という一面を取り戻している(軍事政権の裏面、その最後の悲劇「光州」を活写したドラマ「砂時計」<1995年、SBS放映>を知らない韓国人はいない)。さて「白丁の娘」だが、これは二〇世紀初にあった実話に取材したもので、なかなか重いドラマである。白丁の父を持つオンニョンという名の女の子が宣教師の医者と出会い、梨花学堂で近代教育を受ける。父親は胸に白丁の印である布切れを付けないことで役人から殴打され、急患の往診も断られる。母親は広場の群衆により「白丁閣氏馬乗り競争」という残酷な遊びの馬にされる。母親は凌辱に耐えられず自殺する。母親の葬儀に喪輿を用いようとすると、村人により喪輿は叩き壊される。こうしたことは実際にあっただろう。そして、梨花学堂の六年間の勉学が終わり、卒業式の席上、代表に選ばれたオンニョンは講堂に参席した大勢の人びとの前で、自分が白丁のむすめであることを告白した。
 ドラマは冒頭に日本軍による朝鮮人の体格、体質検査に白丁が強制動員された史実を置き、途中、王朝末期以来の白丁家族の受難をえがき、やがてオンニョンの勇気ある告白と聴衆からの祝福の拍手で終わる。大団円風の終わり方がいささか気になったが、それは、差別は所詮、構築物にすぎないものであっけなく崩壊しうるのだというメッセージなのかもしれない。いずれにしても近代の白丁を考えさせる素材には十分なっている。このドラマを現在の韓国社会がどのように視聴したのかは分からない。ただ少なくとも韓国社会が数十年前まで存在した苛酷な社会差別の歴史を正面から考えようとしたこと、そうした考える風土があることは注目してよい。
 もちろん、今日の韓国にも、モノ余りの日常、「自由」を持て余す若い世代は少なからずいて歴史離れもまたみられるところである。
 しかし一方では、日本の統治、朝鮮動乱、軍事政権下の民主化闘争などによる痛みを肌で知る人びとが健在で、それを語り継ぐ社会風土が存在する。享楽にも大胆だが、痛みにもまた敏感な社会である。もちろん、それがすなわちすべての差別の解消に直結するとはいえないだろう。
 しかし、翻って今日の日本で被差別民の近代を主題にしたドラマを正月番組に放映することなどが可能だろうか。まずそういう主題は企画にすらのぼらないだろう。そうして一方では、現実のさまざまな痛みがいよいよ複合的に再生産されている。歴史の痛みに鈍感な社会が現実の痛みに敏感であるはずはないから当然である。そして案じる、「わたしたちのテレビメディアなどは「不適切な用語」を取り除くことにはいたく熱心だが、歴史の痛みを根治させるための本道をたどることにはすっかり度胸がなくなり、それこそ日々「馬鹿箱」に近づいているのではないか。そうして日本という共同体はまさにその無批判、鈍重さによる束の間の安泰を貪っているだけではないのかと。
 賤民とされた人びとの歴史、それは今、封印を解かれなければならない。そしてのち、はじめてわたしたちは東アジアの同時代性を再認識できるだろう。彼らを含めた同時代的な共同体はつい五、六百年前には確かにまだみられたのである。そして、そうした在り方、生活の様相を具体的に知れば、実は差別意識の多くは存外近い過去に植え付けられた代物に過ぎないということがわかるだろう。
 朝鮮半島の「賤民」は東アジアの基層文化の諸相に迫る関鍵のひとつなのである。これは知らずに済む問題ではない。 (2008年10月5日 補遺)


 参考文献(文中に引用したもの

 巫覡、クァンデの民俗宗教的背景について
 野村伸一「朝鮮文化史における死者霊の供養」『日吉紀要 言語・文化・コミュニケーション』
 No.28、慶応義塾大学日吉紀要刊行委員会、二〇〇二年

 妓生、奴婢、白丁、寺僧、巫堂などについて
 安宇植編訳『アリラン峠の旅人たち』、平凡社、一九八二年
 安宇植編訳『続・アリラン峠の旅人たち』、平凡社、一九八八年
 林鍾国『ソウル城下に漢江は流れる』、平凡社、一九八七年
川村湊『妓生』、作品社、二〇〇一年

 楊水尺・禾尺・水尺、才人、白丁について

 今村鞆「朝鮮の特殊部落」『朝鮮風俗集』、斯道館、一九一四年
 今西竜「朝鮮白丁考」『芸文』九巻四号、一九一八年
 喜田貞吉「朝鮮の白丁と我が傀儡子」『史林』九巻九号、一九一八年
 李覚鐘「朝鮮の特殊部落」『朝鮮』一〇四号、一九二三年
 岩崎継生「朝鮮の白丁階級:特殊部落-形態」『朝鮮』二一一号、一九三二年
 鮎貝房之進「白丁、附水尺、禾尺、楊水尺」『雑攷』五輯、一九三二年(『雑攷 花郎攷・白丁攷・奴婢攷』国 書刊行会、一九七三年復刻)
 金静美「十九世紀末・二十世紀初期における「白丁」」飯沼二郎、姜在彦編『近代朝鮮の社会と思想』、未来社、一九八一年
 杉山二郎『遊民の系譜』、青土社、一九八八年

 衡平運動について

 金中燮『衡平運動研究』、韓国社会科学研究所、肯慎紫、一九九〇年、ソウル
 金永大著、『衡平』翻訳編集委員会翻訳・編集『朝鮮の被差別民衆』、部落解放研究所、一九八八年

 巫覡の歴史について

 野村伸一「李能和「朝鮮の巫俗」註(上)」および「李能和「朝鮮の巫俗」註(下)」『日吉紀要 言語・文化・コミュニケーション』No.28、No.29、慶応義塾大学日吉紀要刊行委員会、二〇〇二年(これは李能和「朝鮮の巫俗」雑誌『朝鮮』、朝鮮総督府、一九二八ー二九年に七回掲載されたものの復刻で、それに訳註を付したもの)

 芸能史および仮面戯

 野村伸一『仮面戯と放浪芸人』、ありな書房、一九八五年
 李杜鉉『朝鮮芸能史』、東京大学出版会、一九九〇年
 田耕旭『韓国仮面劇 その歴史と原理』、悦話堂、一九九八年、ソウル(法政大学出版局から邦訳2004年刊)
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