マユンガナシの映像(1994年の記録)補遺
                                野村伸一

 1 概要

 川平では毎年、旧暦9月頃の戊戌(つちのえいぬ)の日の夜、マユンガナシの祭祀をする。この夜はシツ(節)がおこなわれる。マユンは真世(マユ、豊饒の世界)、カナシは敬称。つまりマユの神さまのまつりである。マユンガナシはマユの国から集落を訪れる。供を連れ戸別に訪ねては、五穀の栽培方法を教え、家を祝福する。
 祭祀は五日間。戊戌の日のマユンガナシのまつり(初日、年の夜<トゥシヌユウ>)に次いで、井戸での祈願(二日目)、芸能の表演、獅子舞などがある(三日目、正日)。四日目*1はかつては獅子舞をしたが、現在はやらない。五日目は「神(カン)ニガイ」で、この日、ニラン(ニライカナイ)からきた大神ニランタフヤンを送り返す。この神はマユンガナシの上位神といわれる。二月のヤーラニガイ(初願い)のときに迎え、豊作祈願をする*2

 *1 この日の早朝、シットゥイをやった。村の35歳以下の女性たちが、夜ばいにきた他村の青年を寝床から引き出し、琉球サカキの小枝でシットゥイと連呼して、村の中央十字路で胴上げして落としたという(宮良賢貞『八重山芸能と民俗』、根元書房、1979年、73頁)。
 *2 比嘉康雄『神々の古層⑥ 来訪するマユの神〔マユンガナシー・石垣島〕』、ニライ社、1992年、81頁以下。なお、かつて、年の夜には村々では大牛を殺し、肝臓、肺臓と肉を御嶽に供えた。また二日目の早朝には少年がスディ・ミヂ(若水)を汲む。これで飯を炊き茶とともに祖霊に供える(前引、宮良賢貞『八重山芸能と民俗』、57頁)。


高屋家を訪れたマユンガナシ。

 映像(4分8秒)
    訪問するマユンガナシ。
    主からの振る舞いに対して、マユンガナシも酒を注ぐ。
    主や家族からもてなされ、土産をもらうと、あとじさりしながら退く。
    見送る家族、とくに子供たちのまなざしは神妙である。ここでは神が生きている。
    そしてまた次の家を訪れる。
    マユンガナシは人語を語らない。
    マユンガナシは司たちに迎えられて、村に帰る。道歌は「おうぱん家(ヤー)」。
    最後は、フームトゥ(大元)の家でシツ(節)ジラバを歌い、巻踊りをする。

  2 マユンガナシのカンフツと主のことば

 マユンガナシのことば「かんふつ[神口、神詞]」は聞き取れない。内容は、来る年の豊作、迎える家の無病息災、長寿、繁昌といったものである。また稲、粟、麦、甘藷、赤豆、きびなどの栽培方法と牛馬の繁殖のことも含まれる。前引、宮良賢貞によると、かんふつは一時間九分つづく。神口が終わると、マユンガナシは座敷にあがる。
 一方、主は親マヤに対して、

  マユンガナシーヌ マイヒサレー
  クズヌ 今日(キュウ) ウニガイ ヒサリダ ソンガ
  クトゥシン シツィユ タガワン クニ
  カンヌ島 上ヌ島カラ オーリ
  フーユ マーユ バ ウチポーリ マキポーリ タボーリ
  シィディガフ ユー ヒサレ
  
  マユンガナシーお前様
  昨年の今日の日にお願い申しあげましたが
  今年も節祭(シツ)を違えず
  神の島 上の島から来訪なされ
  大世 真世 甘世を撒き散らし給わり
  有難うございます        (宮良賢貞『八重山芸能と民俗』参照)

という。マユンガナシの返答は「ンー」というだけである。このあと、主は伴マヤも呼び入れ、膳と酒を提供する。
 
  3 由来伝承

 川平は上(うえ)の村(久場川<クバガー>村)と下(した)の村(内原<ウチバル>)に分かれる。それぞれにマユンガナシの由来伝承がある。どちらのばあいも、神はシツの夜に現れ、村人の歓待に応じて豊作をもたらす。こうした性格の来訪神はやがて、にこやかな弥勒の姿に到るであろう。
 その伝承には、対応を誤ると、祟りをもたらすというような畏怖すべき性格はみられない。しかし、マユンガナシに変身したあと、翌朝、スディ水を浴びて人間に戻るまでは互いの話は厳禁されている。その禁を犯すと「村は、わざわいにみまわれる」とされている(前引、『八重山芸能と民俗』63頁)。ここには、神の国からの使者への畏敬の念が十分よみとれる。

 上の村
 シツの夜に旅人が訪れた。どこの家も宿を貸さなかったが、貧しい南風野家(ハイノヤー)は快く泊めた。その旅人は、天の神の命を受けてやってきた者で、作物作りの神詞(カンフチィ)を唱え授けた。こののち南風野家は豊作になった。神は翌年戊戌の日に訪れた。やがて村人がみなこの神を信仰した。神は帰る前に、みずからの代わりに戌年生まれの者を元(ムトゥ)にし、他の者はマヤの神に扮して各戸訪問し、神詞を唱えるようにと教えた。この神は天の神の使いで、女性とされる。

 下の村
田多家(タダヤー)のむすめが倉の敷地内で神に出会った。神は、むすめが霊高き者であることをさとり、神詞を伝授する。翌年、8月戊戌の日に神がみがマヤの国からきた。田多家の父とむすめは神詞を授かる。こののち田多家は豊作になる。そこで村人がすべてこの神を迎えることになった。神は村人が神詞を覚えたことを確かめると、以後は、村人たちで各戸訪問するようにと教えた。この神は男性とされる*3

 *3 同上、比嘉康雄『神々の古層⑥ 来訪するマユの神〔マユンガナシー・石垣島〕』、79-83頁参照。

  4 マユンガナシ異伝

 特異な伝承
 今日、マユンガナシの行事は川平一カ所だけで伝承される。ただ、以前は石垣北部の仲筋、桴海(ふかい)、野底(のそこ)、伊原間(いばるま)、平久保でもおこなわれた。このうち、桴海のマユンガナシについて、次の聞書がなされている。

 
桴海ではマンガナシ、マンガラシイといい、男マヤ、女マヤの二神が仮面を着けて現れた。手に魔除けの杖を持つのは他所と同じである。村の北東の海岸で海水で身を浄めて神人となる。そして西方のナビンドゥで人間に戻る。なお桴海は第二次世界大戦で村が移動したため、行事は中止となった(前引『八重山芸能と民俗』、59頁)。
 ところで、このマヤの神に関して特異な伝承がある。すなわち、

桴海の真世ん加那志は神の国の話をしてくれる。一番偉い大神様は身の丈、十丁[一丁(町)は約109メートル]。幅五間[一間は約1.8メートル]もある丸丸とふとった大神であると語り、自分等は小男、女であるから使者として使い走りしているのだ」と言っていた。
(昭和九年、現地の節祭における宮良賢貞の聞書、前引『八重山芸能と民俗』、66-67頁)。

 巨神伝承のアジア的広がり 
 これは東シナ海周辺地域にみられる原初の巨神伝承である。たとえば、広西省都安の布努瑶族は密洛陀(ミルオトゥオ、ミロト<世界を創造した母親(『アジア女神大全』)>)という女神をまつる。この女神は巨人である。「天地の間」に屹立し、「東海」もその足を濡らすことがないという。済州島にもソルムンデハルマンという巨大な女神がいて、漢拏山(ハルラサン)を枕にして寝るという伝承がある*4。また朝鮮半島扶安郡辺山半島格浦(キョクポ)水聖堂(スソンダン)の女神も黄海を歩く巨女である。さらに浙江省の普陀山島にも老婆姿の観音について、次のような伝承がある。すなわちその老婆が石を投げたら大岩となった。これをくり返すうちにひとつの埠頭を作ってしまった。ここにはやはり巨神の伝承がある*5。観音は海の女神たちの系譜の上に形成された航海神であるから、上述の巨女と一連のものである。こうしてみると、ニライからの使者マユンガナシも東シナ海の原初的な海の巨神から派生したものといえるであろう。
 
 *4 野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、風響社、2009年、174頁。
 *5 宋華燮「中国普陀島と韓国辺山半島の観音信仰比較(중국 보타도와 한국 변산반도의 관음신앙 비교)」『比較民俗学』第35輯、比較民俗学会、2008年、300-302頁。

 東シナ海の理想の国 
 ここで東シナ海地域における理想の国に関してひとつの原風景をえがいてみよう。それは次のようになる。東方あるいは東南の彼方に理想の国がある。そこには原初の偉大な大神(女神)がいる。そこに向けて移住した最初の人びとは越人である。その移動は春秋時代からはじまっていた。紀元前468年、越王勾践が遷都した山東半島琅邪はその拠点のひとつとなった。彼らのめざしたところは蓬莱山(蓬莱島)である。『史記』淮南・衡山列伝には方士徐福が秦始皇帝の命を受けて、「東南の蓬莱山」をめざし、終に帰らなかったと記されている。 徐福は、平原広澤[湿地]」を得て、そこの王となったというのである。
 ところが、至った島々でもやはり、現実には生活苦が伴ったであろう。そうして、また次の理想の国が望まれた。舟山列島や琉球の島々に渡っていった人びとは大半がそうした移民だったとみられる。そこでは当然、東方や東南方に理想の国がありつづける。琉球でニライとよんだものは蓬莱島にほかならない。だが、蓬莱島へはいつまでたってもいきつかない。一方、みずからがそうであったように、何年かに一度は船に乗って移動する。こうしたところから、海彼からの来訪者が待望されるようになる。
 朝鮮半島ではこれが朝鮮朝後期に現実の世直しとともに語られた。それは『鄭鑑録』という。そこでは南から真人が現れて、疲弊した社会を救済するという。また平安な居所が取りあげられた。それはいずれも南方であり、文人の手になると、南の海島となる。すなわち朴趾源(パク・ジウォン)(1737-1805)は『許生伝』において許生をして、長崎と廈門のあいだの無人島を開拓し、もめ事もなく食も満ち足りた社会を作らせた。一方、朝鮮の民間伝承では南の彼方の理想の国が生きつづけた。巫俗では、それを江南天子国という。
 琉球でも、南端波照間島には南波照間(パイパティロマ)という理想の地の伝承がある。

 移民の根柢 
 島津の支配下に置かれる以前、古琉球の人びとが北へ南へと果敢に交易の旅に出たことはよく知られている。その記憶は明治以降に復活して、大量の移民を生んだ。これは東シナ海周辺地域の理想の国伝承の系譜上にあるものだろう。海外移民では福建人がつとに名高い。しかし、それだけではない。琉球も済州島もやはり、移民を出した。それらは同じ基層文化の上にある。そして、いずれのばあいも、故郷への思い入れが強い。魂は故郷をめざす。東シナ海地域の基層文化においては、これがまた独特な他界観を生み、重要な祭祀文化を形成している。

 魂の故郷と移民
 たとえば、死者の霊魂は花をもって送り返す。こうしたことが先秦時代の楚国で歌われていた(『楚辞』九歌中の「礼魂」)。すなわち、

 
成礼兮会鼓、伝芭兮代舞、姱女倡兮容与、春蘭兮秋菊、長無絶兮終古。
(礼を成して鼓を会し、芭(香草)を伝えて代わる(交互に)舞う。姱女(美女)倡(うた)って容与たり(ゆったりあそぶ)。春の蘭、秋の菊(をもって)、(諸々の霊魂は)長く絶えることなく終古(永遠)ならん。)
(拙訳)

 花で送られる主体は神か霊か。目加田誠は神でも霊魂でもなく「この祭りの絶えることなし」と訳した(『中国古典文学大系15』)。一連の歌の最後なのでそれにふさわしい内容なのに違いない。説が分かれるところだが、ここでは「諸々の霊魂」を送るとしておく。こうして霊魂は花の故郷に帰っていく。また花の姿でこの世に到来する。こうした観念は越系の諸民族のもとで広くみられる。それは今日の巫俗のなかにもみいだされる。台湾では紅頭法師や童乩、道士により梗花欉、裁花などの小法事がなされる。済州島では子供の生育儀礼に西天花畑の花が用いられる。そして韓国東海岸のオギクッでは今日もなお死霊祭に「花の唄」が歌われ、霊魂の送り儀礼をする*6。こうしたことをみると、東シナ海地域において魂の故郷は生きつづけていたといえる。果敢な移民をするから魂の故郷が必要となるのか、魂の故郷が根柢にあるから移民を恐れないのか、両者の関係はどちらが先ともいえない。これは、同じことの二面であったというべきであろう。

 *6 花の民俗、花と魂の原郷などについては、野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』、風響社、2009年、第三章「第三点「九歌中の最後の歌『礼魂』における花の意味」について」(155頁以下)参照。

                          (2010.12.19 補遺)

                           (2011.1.10 補遺)
                          (2013.6.29 補遺) 
 

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