生きている王爺

1.4 今日の王爺

▲[図版4] 小琉球でもっとも夕陽の映える杉板角の海岸。海の向こうは福建省、台湾にやってきた大多数の人びとの故郷である。そこからは現実に人や物がきたし、さらに、生き死にの根元を支えるカミやモノもやってくる。
▲[図版5] 1981年に漂着した王船「無極混元法舟」。長さ1.5mほど。台南県無極混元玄枢院が建造したもので、三隆宮に安置された。1985年に王爺迎えの日を東港のまつりののちにするようにと告げる。そこで3年に1回、東港ののちに自前の王船を作り独自にまつりをするようになった。
▲[図版6]三隆宮の頭筆(トタビ)。盧笠をかぶったまま巡り歩き、棒の先で台上に何やら記す。そうして代天府におさまる三府千歳の声を文字あるいは独特の声音で伝える。かれらは、霊媒であり、まつりのあいだ、いたるところで人びとの願いをききどけてやる。

小琉球の南西側の海岸は岩が多く港としてはよくないが、夕陽のもっとも美しく映えるところである。日のくれなずむころ、そこの海に面してみれば、陸こそみえないが、福建省と広東省の陸地がまぎれもなく向こうにひかえているような気になってくる([図版4])。そして事実、大陸からは人もカミも、その他さまざまなものがここの海岸に漂ってくるのだという。
琉球の王爺まつりは1981年に一つの王船が南西側の海岸に漂着したことから変貌をはじめる。こういうことは他の地方でもよくあることだが、その年、たまたま台南県無極混元玄枢院が建造した王船が漂着した。そして、三隆宮の三府王爺の前に迎え入れ廟中に供奉することにした18)([図版5])。三隆宮では1985年にこの王船と王爺に対し迎王の日をいつにするか示すように祈願したところ、王船からの返事は東港ののちにやるようにとのことであった。信徒らは再三頼んだが、この期日は変わらなかった。そこで、信徒らは協議し3年に1回、東港のまつりののちに自前の王船を作り独自にまつりをするようになった19)
この1985年に独立した王爺まつりのうち迎王と遶境、王爺送りは9月18日から24日未明までの1週間おこなわれた。前引、三尾裕子はこのときの次第を簡潔に叙述し20)、また劉還月はこのあとの1988年の次第をやはり簡潔に叙述した21)。ただし、この両者の記述では、それに先立っておこなわれた3日間の道士の法会がまったく記述されていない。蘇逢源総幹事によると、1985年以来、3日の法会はおこなわれていたという。道教の法会は道士たちによる特殊な儀礼の過程で庶民はみることもないし、またかれらにはその内容はわからないものだとの観点から、それは王爺まつりとは質的にかかわらないものという捉え方もできないことはないが、ここ小琉球の人たちはいわば「新生王爺まつり」を法会とともにはじめたのだから、この過程を除いた記述は不十分といわざるをえない。
1997年の王爺のまつりは11月7日(旧暦10月8日)から3日間の「三朝法会」、そして10日の「請王」、11日から14日まで多数の神輿が島内を練り歩く「遶境」、そして15日の王船の練り歩き、さらに15日から16日未明にかけて王船を白沙尾の浜まで引いていき、そこで王爺を送る「送王船」まで、10日間つづけられた。
この次第の詳細は次のとおり(日付はいずれも新暦)である。
わたしが小琉球についたのは11月6日、この日は準備ときいていたが、夜になると、宮の中央に位置する代天府に向かって参拝する人がいる。そして代天府のなかでは盧笠をかぶった者たちが同じく盧笠をかぶり棒をかついだ者を囲んでいる。棒の先端に立つ者は、香を嗅いでは頭を震わせ重々しい声音で何かを告げる。そして棒の先で台上に何やら書いて王爺22)の意を伝えている。かれらは頭筆(トウビ)といい、代天府におさまる三府千歳23)の声を文字あるいは音声で伝える。かれらは、明らかに霊媒であり、こののちまつりのあいだ、いたるところでその独特な役割を知ることになる([図版6])(ビデオ1)。

▲[図3]三隆宮見取り図

○11月7日
この日から3日間の法会がはじまる。三隆宮の祭場は次のようになっていた。大きな建物の中央に代天府、その左が先鋒府、右が中軍府とされて、これは空間的にも壁で仕切られている([図版7])。またこれらとは別に、彩り鮮やかな新造の王船を安置した王船府があり、さらに広場をはさんで大きな王府戯台と小さな舞台が合わせて三つ作られている。王府戯台とその隣の舞台では王爺迎えのときから送り出すまでの5日間、一時も休まずに専門の役者たちによる奉納芸が演じられる([図版8])。
朝、5時、中軍府でがはじまる。起鼓、諸神勧請、経文読み。祭壇の前には道士と三隆宮の役員たち24)だけがいる。このかたちは3日間同じである。
この中軍府というのは天から遣わされてくる王爺の先遣部隊で三人の大将から成る。それはいつくるかは決まっていない。今年のばあいは陰暦2月22日に大総理の夢のなかにきた。このときから大総理は廟に寝泊まりする。つまりこのときから、大総理は潔斎をはじめる。これはまつりが終わるまでつづくので、この間、自分の生業は犠牲にしなければならない。
 中軍府には臨時の祭壇(三清壇)のほかに、それと向かい側に空間をはさんで三界壇が作られ観音が置かれる。さらにその背後かなり奥に三つの令牌が安置されている。その令牌のあたりは一般の者は接近ができないが、少し手前で拝礼することはできる([図版9])。また観音の右側には長さ一メートル半ほどの王船が置かれてある。これが前述した台南の無極混元玄枢院から漂着した王爺船である。

▲[図版7]法会初日の朝、道長(道士のリーダー)が代天府の前で天上のカミへ祭儀の挙行を告げて舞う。右に中軍府がみえる。 ▲[図版8]右側の王府戯台は三隆宮が直接契約して、五日間、一時も休まずに王爺への奉納芸をやらせる。中央のこぶりの舞台は信徒らが経費を出しあって奉納芸をさせるもの。いずれも観客はほとんどない。さらに左の端のほうにもうひとつ有志により組織された舞台があるが、こちらは現代物で夜はにぎわう。
←[図版9]中軍府の令牌に向かって参拝する者は手に「wx」という占い具を持ち、これで願い事の正否、運数の吉凶を占う。さらにそれを解ききかせる者もいる。



▲[図版10]法会の二日目の夜、唱えごとがしばらくつづいたあと、突然、電気が消され暗がりになる。すると仮面をつけたモノ魔障が現れる。「宿啓斬命魔消災解厄」。

○11月8日

前日からひきつづいて道士は「朝天謝罪宝懺」という経文を九巻まで読んでいく。そしてこの日の最後は「宿啓斬命魔消災解厄」(宿啓科儀、禁壇科儀)である。これは道士が魔障を意味する仮面のモノを刀で断ち切る儀礼で、演劇的におこなわれる([図版10])。唱えごとがしばらくつづいたあと、突然、電気が消され暗がりになる。すると仮面をつけたモノが現れる。ヒーヒーと妙な声を発しつつ音楽に合わせてはげしくおどり、空を切り([図版11])、いったん消えてなくなる。やがて道士が登場して刀を振りつつ勇壮におどる。このあと先の仮面のモノが現れて両者の戦いが演じられ、悪しきモノが斬り伏せられる([図版12])。道教の儀礼のなかにもひじょうに具体的な悪魔払いの演戯が含まれていることが知られる。

▲[図版11]暗がりのなか魔障はヒーヒーと妙な声を発しつつ音楽に合わせてはげしく踊り、空を切る。「宿啓斬命魔消災解厄」。
▲[図版12]やがて道士が登場して刀を振りつつ勇壮に踊り、魔障との戦いが演じられ、悪しきモノが斬り伏せられる。三日間の道教の儀礼のなかでもっとも具体的な悪魔払いの演戯である。「宿啓斬命魔消災解厄」。



○11月9日
「朝天謝罪宝懺」が十巻まで読まれ、そのあと祈願者への祝福である名前の読み上げ「入?」がおこなわれる。神々が到来し帰っていくので中軍府の上部に黒い布の橋がかけられる([図版13])。そして3日間の法会の終わりを告げるべく、道士と役員らが外に出る。人びとが百数十名これを静かに見守る。かれらはあらかじめ各自のイエから供え物を持って広場にやってきていた。その供え物はカミのおつきの兵士らに施す食べ物で広場に整然と並べられている。
しばらくすると、道士らが王府戯台の上にあがり「普施」をおこなう。そこにはあらかじめ菓子や硬貨が山と積まれていたが、これを道士らが一斉に音楽の伴奏とともに気前よく撒き散らす。これは中元節のときによくみられる餓鬼供養の「普度」と根底においては通じるだろう。人びとはこの時を待っていたかのように集まってきて、熱狂的にこれを受け取ろうとする([図版14]、[図版15])。おそらく人びとにとって3日間の行事の意味はここにあったのだろう。かれらは中軍府のなかでおこなわれる儀礼には参与しない。しかし、寄付をした人として名が記され、これが読みあげられるとき、外で拝礼はする。儀礼との関係がまったく断ち切られているわけではない。そして3日間といういくらか長い前置きのあとで法会の成就をともに喜び合ったのだといえよう。

▲[図版13]法会の三日目、朝天謝罪宝懺という経文が十巻まで読まれ、そのあと祈願者への祝福である名前の読み上げ「入@」がおこなわれる。このとき神々が到来し帰っていくので中軍府の上部に黒い布の橋がかけられる。 ▲[図版14]三日間の法会の終わりに「普施」をおこなう。王府戯台にはあらかじめ菓子や硬貨が山と積まれていたが、これを道士らが一斉に音楽の伴奏とともに気前よく撒き散らす。これは中元節のときによくみられる餓鬼供養の「普度」と根底においては通じるだろう。 ▲[図版15]人びとはわれさきに施された物を受け取ろうとする。おそらく人びとにとって三日間の行事の意味はここにあったのだろう。神々へまつりの儀を報じ、供物(人びとの背後にみえる)も贈り、その果報としてありがたい施しをちょうだいする。


○11月10日
今日は朝早く、神輿を船に載せ島巡りをし、午後には白砂尾の海岸で王爺迎えがおこなわれる。
まず午前7時に三隆宮の前の広場から39もの神輿が大福村の港まで練り歩く。これは全島八つのムラにまつられる各種の神仏の巡行で、それぞれの信徒らに担がれている。大福村の港では、神輿が一つずつ船に載せられ西回りで一周する。これは各神仏の力を借りて小琉球から悪しきモノを追いやるためだという。ふだん船に乗っていて海上から島をみるのはほとんど何事でもないはずの男たちが、このときばかりは、いかにもうれしそうに島の方に目をやる([図版16])。島は大きな山もなく平らな穏やかそうなかたちであるが、払って除きたいものもまた多くあるにちがいない([図版17])。

▲[図版16]全島八つのムラにまつられる神仏の御輿が船に載せられ西回りで一周する。神仏の力を借りて小琉球から悪しきモノを追いやるためだという。海の男たちが、このときばかりは、見守るように島の方に目をやる。 ▲[図版17]御輿を前部に据えて島を巡る船。島は大きな山もなく平らな穏やかそうなかたちであるが、くらせば葛藤もあり災厄も多い。
▲[図版18]請王。白沙尾の浜辺で王爺を迎える際に道士により災い除けの唱えごとと踊りが披露される。浜辺には暑いさなか、数百名のムラ人がいてこれを見守っている。そして王爺を迎える段となる。

島巡りを3時間ほどで終えると、それぞれの神輿はまた三隆宮まで歩いて戻っていく。そして休息してから、午後2時、今度は「請王(王爺迎え)」の儀のために白沙尾の海岸まで練り歩く。行列の際、大総理以下の役員が王爺の令牌を持っていく(前掲[図版1]参照)。先鋒官(温府千歳)、二千歳、三千歳、四千歳、五千歳そして大千歳が二つ、都合七つである。これらのうち五つの千歳の令牌は三隆宮に鎮座する王爺のためのものであり、一方、大千歳の令牌25)はこの日の午後、白沙尾の海岸で迎える王爺のためのものである。この王爺は玉皇上帝から派遣される。天から来臨して巡り歩くことで島を守ってくれる。それを縮約したものが「代天巡狩」「遶境平安」のことばで、これを書いたものがのちに大千歳の神輿には貼り付けられる。
白沙尾の浜辺にはあらかじめ簡単な祭場がしつらえてある。ここに道士と役員がはいって、はじめに災い除けの唱えごとと踊りが披露される([図版18])。浜辺には暑いさなか、数百名のムラ人がいてこれを見守っている。道士は小さな手鏡に朱の筆で符呪を書き、鏡の反射する力を用いて魔障を遠ざける([図版19])。そして王爺を迎える段となる。(ビデオ2)

▲[図版19]王爺を迎える前には唱えごと、踊り、そして鏡などの呪具の力により祭場を浄める。道士は小さな手鏡に朱の筆で符呪を書き、鏡の反射する力を用いて魔障を遠ざける。
▲[図版20]各ムラの御輿についてきた頭筆が海に向かって進んでいき膝近くまでつかったところで立ちつくし、王爺を請じいれる仕種をする。迎えるモノもカミ、降りてくる王爺もカミだ。

このやり方はなかなか巧みに構成されている。道士と役員らはまず、今回やってくる王爺が何姓かを祭場の周囲に待機している神輿にいいあてさせる。それは神輿が一つずつやってきて、頭筆を通してことばを伝えるやり方でおこなわれる。実はこの王爺の姓は大総理、副総理、総幹事、道長(道士のリーダー)らはあらかじめ霊感があって知っているのだという。王爺は天から派遣されるとされるが、頭筆は海に向かって進んでいき膝近くまでつかったところで立ちつくし、王爺を請じいれる仕種をする([図版20])。やがて祭場にはいって筆の代わりをする棒で台上に字を書いて意を伝える。どの頭筆がいいあてるか、周囲に集まったすべての者が固唾をのんでいる。一回、二回と外れた。そして四回目、大福村福安宮の頭筆がいいあてた。いいあてた頭筆はカミがかりしたかのようにうつろな目になってくずおれる([図版21])。総幹事から王爺の名について発表があると、周囲にいて見守っていた人びとから歓声があがる。今年は「余」姓の王爺が降りてきた。紙と提灯に余の字が書かれ、大きく丸でかこまれる。この令牌が馬の背に載せられて三隆宮へもどっていく([図版22])。
夜、8時すぎに「過神火」の準備がはじまる。三隆宮の広場には人びとの持ちよった供物が容器に入れられたまま並べられてあったが、これが片づけられる。そして数箇所で火がたかれる。人びとの数はざっと四、五百はあろうか。火は燃え盛り、しばらくして薪が燃えつきると、これを均し、5個所にまとめる。やがて道士が現れて一つ一つを払っていく。これらがすっかり済むと、7種類の王爺と四つの角頭(「村」以前の地域単位)から出た土地公「福徳正神」、合わせて11の神輿が火渡りをする([図版23])。この火渡りは3回くり返される。なお、これ以外の神輿は各自の宮にもどって火渡りをするのだという。
 三隆宮の王府戯台ではカミへの奉納芸がはじまっている。内容は白い面の神仙の登場、祝福、悪鬼払いなどである。これは最終日まで、すなわち11月15日から16日にかけての王爺送りまで昼夜休みなくつづけられる。

▲[図版21]大福村福安宮の頭筆が今年の王爺の姓をいいあてて憑依の状態になる。今年は「余」姓の王爺が降りてきた。総幹事から王爺の名について発表があると、周囲から歓声があがる。
▲[図版22]紙と提灯に赤の顔料で余の字が書かれ、大きく丸でかこまれる。このあと令牌の開眼の儀があり、最後に余姓の王爺が馬の背に載せられて三隆宮へもどっていく。 ▲[図版23]請王のあと夜、おこなわれる「過神火」。まず薪の火がたかれ、燃えきると、これを均す。次に道士が現れて一つ一つを払っていく。そして王爺とた土地公「福徳正神」の御輿が火渡りをする。
▲[図版24]戸口にじっとしゃがみ、巡りくる御輿を迎える沿道の老婆。できるかぎり身繕いをする人もかなりいる。王爺を待つのか。海の向こうからくるモノを待つのか。

○11月11日
今日から4日間は遶境、神々の練り歩きである。伝統的な村落組織である角頭を隈なく巡る。小琉球には島の南側の大寮角、南西側の天台角、北側の杉板角、島の中心地を含む東側の白沙尾角の四つがある。かつては、ただ一日で遶境を済ませたのだから、島内を隈なく巡ることはできなかった。道も細く島の中央を走る細い道を東から南西の果て海口までいき戻っただけという。それが現在は一日一角頭の遶境となった。実は小琉球の人びとにきくと、まつりのなかでもっとも楽しみなのはこの遶境だという。それは実際にカミとともに歩いてみるとうなずける。ここには人びとの参与と交歓の思いがあふれている。

それは小琉球の人びとにとって直接話し合い、感謝しあう至福のときでもある。外部の者がこの祝祭気分に満ち溢れる人びとのこころ躍りの深みにまで到達することは容易なことではない。そんな感じがするほど、いく先々で深々とした喜びの雰囲気がただよう。人びとは自分のイエの前に飲み物や食べ物をこころを込めて用意する。カミの随行者はいうまでもなく、通りすがりの者たちも食べ放題飲み放題である。粽などはイエごとに工夫をこらしたものでどこで食べてもうまい。人びとは線香を両手で持ちこきざみにふるわせながらカミのやってくるのをこころ待ちにしている。老人も子供たちもその顔はまるで三年間逢えずにいた待ち人を焦がれるかのようでいい顔だ([図版24]、[図版25])。(ビデオ4)(ビデオ5)
カミの先駈けの者が音楽ととともにみえてくる。すると爆竹が鳴らされる。人びとは道の真ん中に出ていき、一列に並んで額ずく([図版26])。その自然な敬虔さはもう長らくみなかったものだ。神輿が目の前にくると爆竹がより一層あちこちで鳴らされる。猛烈な爆音がして耳が張り裂けそうになり、視界がきかなくなる。しかし、人びとは晴れやかな顔で神輿の下をくぐりぬけてくる。これから三年間の無事を祈り、今かかえている災いを払ってもらうためである。いや、おそらく何かを待ちつづけて今ようやく迎えることができたという悦びのために顔が明るいのだろう。
行列の先頭は温府千歳、そして最後は「余」の字を書いた旗を伴った大千歳(王爺)の神輿である。行列のあいだには、台南から漂着した王船があり、また信仰されている度合いからいって三隆宮に匹敵する碧雲寺の観音、その他島の主要な神々、そして歌い手の一団などもある。これらは一つ残らず途中にある宮や廟、また王爺まつりの役員のイエに立ち寄りあいさつを受けていく。時間もかかるが、訪れる者も迎えるものも役に浸りきっていて、こうしてまちがいなく島あげての祝祭の時が作られていく。
初日は大寮角のなかでの遶境で、終わったのは午後9時過ぎであった。

▲[図版25]王爺を迎えるのはおとなばかりではない。おばあさん(?)に導かれていたいけな子供が待ち迎えることを教わる。何がくるといいきかせているのか。
▲[図版26]代天巡狩の王爺には先駈けがついてまわる。これを迎える沿道の人びとは道の中央に出て額づく。



○11月12日
遶境の二日目は天台角を巡る。朝、7時に神輿の練り歩きがはじまる。この日はまず南福村の大総理黄進歩氏のイエに立ち寄る。大総理のイエの前には大きな舞台が設けられていて、大総理と息子および家族たちが神輿の訪問を恭しく迎える。とくに大千歳の来訪では神輿から純金製の王爺の令牌が出され、イエのなかに用意された座に移される([図版27])。食卓の上には食べ物、飲み物、煙管が置かれてあり、さながら賓客をもてなすかのようである。
練り歩きそのものは前日と同じであるが、神輿の渡御だけでなく、三隆宮の頭筆も重要な役割を果たしていることがともに回ってみるとよくわかる。かれらは大千歳の神輿が過ぎ去ったあと、六人ぐらいで組をなして回っていく。神輿は一々のイエには立ち寄らないが、頭筆は要請があると、立ち寄る。そして漁の成果が上がらないなどの悩み事に対して、またイエの神仏の配置などについて指示を与えたりする。かれらは王爺の霊気を媒介しているので、神輿はなくとも丁重にもてなされる([図版28]、[図版29])。
夕刻6時ころ、天南村の土地公(福徳宮)で一風、変わった大千歳迎えがおこなわれた。土地公の招きで宮の奥の席に座った大千歳の頭筆がムラ人の願い事に対して裁可をくだすのである([図版30])。たとえば今回は地元の林氏からの願いで、自分のイエでまつる名の知れない鬼神をカミとして認めてくれるかどうかということが一つの案件としてかかっていた。長らくやりとりがあったあと、いくらかおごそこな王爺の「申し渡し」があった。許可はおりた。カミとしてみとめるとのことであった。(ビデオ9)このほかにもムラ人たちの訴えはいくつもあり、大千歳の頭筆はなかなか帰りの途につけない。この日、大千歳が三隆宮にもどったのは夜、10時過ぎであった。

▲[図版27]大総理のイエに立ち寄ってもてなしを受ける余姓の王爺の令牌。純金製で、これはこのまつりのあと、次の大総理のイエに移され三年間、安置される。
▲[図版28]三隆宮の頭筆は六人で一団を成し、御輿のあとからついていく。そしてイエに訴えごとがあると、きいてしかるべき処置をほどこす。
▲[図版29]ムラの廟に立ち寄る頭筆。この頭筆はときに憑依に近い状態になる。食事時などに人の善いところをみせ、人気がある。専任ではなく三年ごとに選ばれる。 ▲[図版30]天南村の土地公(福徳宮)では遶境中の大千歳の頭筆を廟内に迎え入れる。頭筆は、ムラ人の願い事に対して王爺のようにおごそかに裁可をくだす。



○11月13日

▲[図版31]謝将軍。遶境は異装の神霊の練り歩きでもある。大福村城隍尊神県太爺(城隍神)の部下で、黒い顔の范将軍と対になって御輿の先をいく。
▲[図版32]子供たちの扮する五毒大帝。かれらはやはり異装の先駆者で、その際厄除けの働きを乞われて船やイエのなかを払って回ることもある。
▲[図版33]杉福村の土地公で大千歳の頭筆を迎え「裁き」がおこなわれたあと、廟のイ入り口の脇でひとりの女性が泣きうたうかのような声を立てた。身に苦しみがあるので、千歳が兵馬を遣わしてたすけてくれるようにと訴えているのだ。
▲[図版34]哀訴する女性に対して頭筆は、手足の指に墨を塗って印とし王爺に誓いを立てることを命じる。そこで実際に両手、両足に墨が塗られ紙片にその印が押される。誓いを守らなければ身を断ち切るという厳かな言い渡しのもとで。
▲[図版35]王船。遶境の四日目の早朝、王船府から代天府の前に移される。長さ五、六メートルほど、桧造り。左右の舷側には文財神、武財神や故事に登場する人物の絵がえがかれている。また先頭には「天官賜福」の字とその模様を描いた絵がある。この船は翌日の深夜燃やされることで天に昇っていくめでたい船である。


遶境の3日目は杉板角を巡る。南西側の海岸部は潮流の関係で流れ寄るものが多く、かつて台南から王船がきたのもこの杉板角の海岸である。3日目の行列ではあるが、それぞれの神輿は前日と変わることなく勢いよく揉まれ、また頭筆もカミの声を告げてまわる。この活力はすごいものがある。11月ではあるが、日差しは強く暑い。温度もおそらく30度近いだろう。
行列のなかには異装のカミもいる。まず目につくのは大福村城隍尊神県太爺(城隍神)の部下である二将軍で、黒と褐色の顔をしている。黒いのは范将軍、褐色のは謝将軍という。台湾南部ではこの二将軍は廟の入口で守護神の役割をはたすことが多い。小琉球できいたところによると、范将軍はかつて橋をかけるときに人のために身を犠牲にし、謝将軍は友の死をいたんで自殺したのだという。このふたりが城隍神の前衛として練り歩く([図版31])。また子供たちの扮する五毒大帝([図版32])とか、十三太保というのもいずれも先駈けのモノたちで、かれらは乞われれば個々のイエに立ち寄り厄除けをしてあげる。
この日もまた土地公の廟内で「裁判」があった。神輿の練り歩きだけでは解決しようのない個々の訴えに対して頭筆らは真剣に受け答えする。この夜もさまざまな訴えがあったが、三隆宮の頭筆と大千歳の頭筆とのあいだで「12時までにもどらねば玉皇上帝からお咎めがあるのだ」ということで言い争いをしたのは異様だった。だが、きいてみると、カミは人間と同じように争いもすると人びとはみなしていて格別、これを異とする風ではなかった。(ビデオ9)
さらにまた、廟の外でも、ある女性が切ない声で歌いながら何かを訴えていた。きいてみると、身に苦しみがあるので、千歳が兵馬を遣わしてたすけてくれるようにと訴えている([図版33])。それに対して頭筆は、手足の指に墨を塗って印としカミに誓うことを命じる。そこで実際に両手、両足に黒々と墨が塗られ黄色の紙片にその印が押される。それは今後善き事をなすという誓いであり、さもなければ身を断ち切るという厳かな言い渡しなのである。その女性は誓約の印を頭筆に差し出したあとで気を失うようにうしろに倒れこみ、脇の者に抱えられた。周囲には二重三重に人だかりがしていて、このやりとりをわがことのようにみつめている([図版34])。
その場を離れて少し高いところから、夜陰のなかにきらびやかな彩りとともに集うムラ人たちをながめてみた。昼間、神々の臨幸を目の当たりにし、次いで夜はカミと対面し、その場に身を投げ出す。これは王爺のカミに対してでなくとも別段かまわないだろう。いってみれば芝居のようなものだ。だが、年を越えても戻らぬ夫の身の上を案じる女性、また絶えず変化する海に面して暮らしている男たちにとって、このみずからが主人公となって演じる祭祀劇の一幕こそは生きる証なのに違いない。もう二日もすれば王爺は海の向こう、あるいは天に帰ってしまう。かつて道沿いの人びとはこの通り過ぎる王爺をいつまでも引き止めようとしたために、最後の神輿が三隆宮に戻ると深夜、二時、三時になったなどという。カミとの対面がいかに切実なものであったかということであろう。海を越えてやってきてくれるものはこれしかない。これはカミであり待ち人なのだ。帰路、周囲に目をやると、あちこちのイエでは縁戚や友人が集まって宴がくり広げられている。わたしのようなよそ者にも立ち寄っていくようにとしきりに誘う。それは王爺とともにする宴なのであり、いつ終わるとも知れぬものであった。

○11月14日 (ビデオ10)
遶境の4日目は白沙尾角頭を巡る。練り歩きに先立って、この日の午前3時に、今回のために30万元(約120万円)かけて作られた王船を代天府の前に移座する法会がおこなわれる。王船府のなかから外に出された船は長さ5、6メートルほど、桧造りで堂々たるものである。左右の舷側に故事に登場する人物や財神の絵がえがかれている。また先頭には「天官賜福」の字とその模様を描いた絵がある。この船は天と地を往来して人びとを祝福するめめでたい船なのである([図版35])。
さて遶境は、予定通り午前7時にはじまる。三隆宮から東側に向かうと白沙尾の海岸に出るが、ここは東港との連絡船の発着場があり島でもっともにぎやかなところである。朝、9時半ごろ行列の先陣が到着し、港の数十の船からけたたましい爆竹の音がする。五毒大帝らがある一艘の船の上に乗りこみ、祓いをしてあげているのがみえる([図版36])。これは船主がとくに願ってのことのようだ。ふつうは行列を爆竹で迎えるか、船の側の埠頭にひざまずいて感謝するだけである。
海岸にある霊山寺では衣服をかかえた婦人が神輿の下をくぐる([図版37])。これは不在中の家族の無事を祈ってのことであろう。また一陣が通り過ぎた後の道でひとり空缶を拾いつつ道を清める腰の曲がった老婆がいる。何気ない行為ではあるが、カミの通り道に対するまごころの証であろう。一方、福々しい顔をした土地公の化身が喜捨を乞うて歩くと、施しがある([図版38])。海に面したイエではむすめたちが着飾ってカミの到着を待っている。迎える人びとにとって遶境がはじまってから4日目の午後とはいかにも待ち遠しかったにちがいない。それだけに、どこでみても一軒一軒がうやうやしく、また甲斐を感じて迎えている([図版39])。
夜にはいっても神輿と爆竹の音がひきもきらずに行き交う。今日もまた最後の王爺が戻ったのは夜10時過ぎであった。それを迎える人、ついて歩いてきた人でかなり広くみえた広場がいっぱいである。10時半ごろ、三隆宮の五つの王爺の令牌が先に代天府にはいり、次いで大総理が抱えていた大千歳の令牌がもどされた。これで4日間の練り歩きは全部終わった。だが、なお、三隆宮の庭は礼拝の順を待つ人で沸きかえっている。
そしてまもなく代天府のなかでは各ムラから選ばれた人たちが集まり、次回2000年の大総理ほかの役員を選ぶための占い「wx」をはじめることになる。とくに大総理は生気福徳があり、妻も子も、さらに孫までもそろっていることが条件で、さらに幾度も占いをし、その結果、陰陽の調和が取れていることが明らかになった者が選ばれる。これを担当すればいろいろな負担があるが26)、この役を望む者が多いのだという。それはひとことでいうと、全島に存在を認められることの甲斐ということのようだ。この選出過程は外部の者には非公開なので帰路に就くことにする。

▲[図版36]遶境の最終日は、まず白沙尾の港に出る。ここは東港との連絡船の発着場があり島でもっともにぎやかなところ。朝からけたたましい爆竹の音がする。五毒大帝がある一艘の船の上に乗りこみ、祓いをしてあげているのが遠くみえる ▲[図版37]白沙尾の港に接したる霊山寺では衣服をかかえた婦人が御輿の下をくぐる。不在中の家族の無事を祈るのであろう。海に面したイエではむすめたちが着飾ってカミの到着を待っている。迎える人びとにとって遶境がはじまってから四日目の午後とはいかにも待ち遠しかったにちがいない。それだけに、どこでみても一軒一軒がうやうやしく、また甲斐を感じて迎えている。
▲[図版38]福々しい顔をした土地公の化身。喜捨を乞うて歩くと、人びとから施しがある。魚福村池隆宮。 ▲[図版39]魚福村の海辺のイエでは四日間大千歳のやってくるのを待っていた。今ようやく迎え得てこころからのもてなしをささげる。


○11月15日
この日は王船の練り歩きと夜更けに王船送りがある。祝祭の仕上げがおこなわれる日である。
午前5時から王船が練り歩く前の法会「遷船法会」。そして午前7時から王船を引いて練り歩くための準備にはいる。朝早くから人びとがきて参拝している。王船に太綱が前後二本ずつ付けられ、これを男たちが引いて出たのは午前9時ごろであった。三隆宮の広場には相変わらず昼夜、歌い止まない奉納芸の声が鳴り響き、それはいかにもけなげである。もう六日にもなるのにかれらは疲れることがないのだろうか。みる者はいない。それはやってきた王爺にひたすらささげるだけの芸能なのだ(後掲[図版55]参照)。
太陽は今日も朝から激しく照りつけている。王船は島を一周する予定なのでかなり足早に引かれていく。しかし、各ムラの土地公のところにいくと、もてなしを受けるし、また沿道の人びとから王船への贈り物が渡される。それらは醤油や油、米、菓子、飲み物などでそれぞれのイエからのこころづくしである。これを一々受け取り随行するクルマに積んでいく。一つ一つは小さな包みだが島中の人が参加しようとするのだから、その量も少なくはない。
道が集落から外れて海際の人の少ないところをゆくとき、彩り鮮やかな王船は透きとおった蒼い海とわずかにたなびく白い雲のなかに照り映えてみえる。その姿は海の向こうからきたにちがいないとおもわせ、いかにも王爺が帰りの道を歩いているかのようにみえてくる。華やかななかにドラマが確実に終幕に向かっている気配がする。この日、昼時、あちこちのムラでは土地公の庭などでムラ人たちがねぎらいの会食をしている。まつりはまだ終わっていないのだが、杉福村福安宮(土地公)の宴の席に連なってみると、昨日までの念入りな遶境によって島がすでに祝福されていることが伝わってくる。時間はまだ昼下がり、このあと、王爺との別れはいったいどのように演じられるのだろうか。

▲[図版40]王爺の船を送り出す数時間前、代天府の前に据えられた王船に贈り物を載せる。王船添載である。馬の拵え物、武器、楽器その他あらゆる飲食物が用意されてある。
▲[図版41]「宴王儀式」。天からきた王爺との最後の盛大な宴。大総理が儀典係に教えられるまま王爺に向かい幾度も料理を、そして杯を差し上げる。
▲[図版42]「拍船祭、開水路」。王爺との宴のあと、道士らが火を起こし、その上になべを置く。さらにこの上に円形で薄べったい竹細工のざるのようなものを載せる。この両端には橋のようなかたちで台が平行に置かれる。そして、五方を象徴する五人の道士らがここを通過しながらざる状のものをたたいて王船の進路を祓い清める。
▲[図版43]五人の道士が道を清めると、道長は鍬で水路を開くまねをして船を送り出す。
▲[図版44]白沙尾の海岸から天に戻る王船と王爺。王船の周囲にはあらかじめ準備してあったおびただしい量の金紙が積まれてあり、王船はあっという間に燃えあがる。人びとは固唾をのんでみつめる。疾病が除かれ、大漁と豊作がもたらされるからか、三年目の出会いの幕切れをかみしめているのか。

王船は三隆宮を出て、はじめは東側に向かうが、海岸まではいかずに舗装道路を南下し、南から西回りに移動する。そして、午後4時ごろ、白沙尾の埠頭に戻ってくる(前掲区域図参照)。(ビデオ10)白沙尾では島民の生業の拠り所である漁船を祝福し、かつ船主らから答礼の爆竹を浴びたあと、三隆宮の方に向かうがすぐには帰らず碧雲寺などに立ち寄るので、王船が三隆宮に戻ったのは午後7時過ぎであった。
この日の王船の練り歩きと前日までの王爺の代天巡狩とはどこが違うのだろうか。一般的にはどちらも神威により島内の災いを追いやる、あるいは魔障をとらえて処置すると同時に、船乗りの安全を祈願するものと考えられるが、蘇逢源総幹事はこうもいっていた。すなわちこの日の王船の練り歩きは三隆宮に鎮座する大千歳(五府千歳のこと)の船が練り歩くということで、4日間の遶境とやることは同じでも、その主役はあくまでも三隆宮の王爺なのだと。とはいえ、ムラの人びとにとって片や「王爺が今きましたよ(代天巡狩)」といい、片や「王船がきましたよ(三隆宮の五府千歳)」のお触れ27)とともにやってくる一行はどちらもかたじけない王爺なのにちがいない。

午後9時から代天府の前で王船添載がはじまる。(ビデオ11)ここで楽器や馬などの拵え物([図版40])、また金紙、米、小麦粉、食用油、塩、水など、あらゆる飲食物を船に載せる。
このあと道士による「拍船祭、開水路」の儀式がおこなわれる。はじめは経文読みで30分ほどつづけられる。これが一段落すると、大総理ら役員は代天府のなかにはいり「宴王儀式」をおこなう。すなわち天からきた王爺との最後の盛大な宴がくり広げられる。膳の上には大きなエビやら鶏肉などがいっぱいに並べられている。音楽隊がいて護衛の兵卒らも控えている。この中央では大総理が儀典係に教えられるまま王爺に向かい幾度も料理を、そして杯を差し上げる([図版41])。(ビデオ12)
この王爺との宴が終わると役員らは実際に労をねぎらいつつ飲食に興じる。時刻は午前零時ちかくになっている。やがて外で道士らが王船を送り出すための演戯にとりかかる。まず七輪のようなものに火を起こし、その上になべを置く。さらにこの上に円形で薄べったい竹細工のざるのようなものを載せる。この両端には橋のようなかたちで台が平行に置かれて、道士らがここを通過しながら、手にした竹の旗竿でざる状のものをたたいていく([図版42])。幾度かこの奇妙な演戯をくり返したあとで竹の容器は壊れ、橋も片づけられる。こうして王船の船出にあたっては悪しきモノの祓いの戯がなされた。これが拍船である28)。そして道士は鍬で水路を開くまねをして船を送り出す([図版43])。王船はもう航行をはじめているということなのだろう。(ビデオ13)(ビデオ14)
 このあと王船は夜道、白沙尾の浜辺まで引かれていく。王船の前には道士が立ち、後ろには大千歳、二千歳、三千歳や各角頭の神輿がつづいている。白沙尾についた王船は頭筆の指示で向きを決め安置される。王船の周囲にはあらかじめ準備してあったおびただしい量の金紙が積まれる。これがかなり長くかかり、小一時間はあっただろう。船の周囲を金紙がしっかりと囲むように置かれると、音楽が奏でられ王爺の令牌が神輿から船に移される。今や主賓が帰りの坐についた。やがて鍬を持った道士が合図して時がきたことを知らせる。すると、爆竹が夜陰をつらぬき、同時に船の周囲から火の手があがる。一斉に火がつけられ赤や黄色で彩色された高価な王船が勢いよく燃えあがる([図版44])。こうして王爺を載せた船は東あるいは天に向けて送られる。人びとは波打ち際から、また浜に築かれた堤の側から固唾をのんで燃えあがる王船をみつめる。疾病が除かれ、大漁と豊作が将来されることを願っているのか、はたまた長い準備のあとの、わずか数日の出会いが今こうして終わっていくのだということをかみしめているのだろうか。
王船がすっかり燃え落ちるのをみとどけようとしてほとんどの人びとは身じろぎもしない。船に火がまわったのが午前4時過ぎ。それから20分は過ぎたが、まだ相当に燃えのこっている。しかしそれはもう10分もすれば燃えおちてしまうだろう。別れは否応なくくる。ここで、わたしはその場を離れた。

○11月16日
この日、正午から三隆宮の広場では盛大なあとのまつり「平安宴」が催されるときいたが、時間の都合で参加をみおくり、帰途につく。
それにしても王爺に込めた人びとの思いは何だったのだろうか。


注釈

18)通常は三隆宮廟内「中軍府」の右側奥まったところに安置してあるが、王爺のまつりのときは外に出される。長さ1.5メートルほどのこぶりのものである。
19)前引、劉還月『台湾的歳節祭祀』、176頁。
20)前引、三尾祐子「<鬼>から<神>へ-台湾漢人の王爺信仰について」、252頁。
21)前引、劉還月『台湾的歳節祭祀』、177頁以下。
22)これは三隆宮に安置された三府王爺である。これとは別に天から遣わされてくる王爺がいると信じられているわけである。天からきた王爺の声ものちには頭筆を通して伝えられる。従って、この役割は人びとにとってたいへん重要である。
23)これには池・呉・朱の三姓があるという。さらに蘇逢源総幹事によると、王爺はもともと五人兄弟で、それらがのちにこの三姓と李、范の二氏を合わせて五氏になったという。そして王爺の別名である千歳を用いるとき、大千歳、二千歳、三千歳、四千歳、五千歳というが、これらはそれぞれ李・池・呉・朱・范に相当するという。要するに「王爺」というカミは単一ではない。
24)役員とは大総理、秘書、総幹事各1名、助理2名、副総理4名、理事、参事各8名で、全島八か村から選ばれる。
25)令牌は一つで足りるとおもわれるが、大総理とその息子が一つずつ抱いて出迎えにいった。
26)次の三年間、大千歳の令牌を自宅に安置すること、王爺?の年、中軍府が夢のなかに降りてくると、日常の仕事ができなくなり、廟に寝泊まりすること、そしてまつりのあいだは自宅が客の接待場となり、持ち出しも多いことなどである。ちなみに、次回西暦2000年の王爺?の大総理をつとめることになったのは杉福村の林天送という人であった。
27)「代天巡狩」のばあいは先駈けの者たちが叫びながら歩く。一方、王船の練り歩きのばあい、現在はクルマに乗った者が拡声器でよばいつつ回る。
28)劉枝萬によると、この儀は法師の立場で紅頭法によりおこなわれるものである。船首の地面で打船?をおこなう。これが拍船とよばれるものである。このときにはさらに王船の四方をムシロを巻いたものでたたいてまわるという(前引、劉枝萬『中国道教の祭りと信仰』下、393頁)。小琉球では旗竿でたたいてまわった。


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