1997年、台湾釈教の中元祭典(補訂)―桃園県仁寿宮の事例
                                                     野村伸一

 〔付記〕 以下の文章は、2002年発表の野村伸一「中元節についての発表要旨」(pdf)1)のうち、台湾の部分を取り出し、それに補訂を加えたものである。元来のものは「2001年度活動日誌」中の一文であったため、埋もれた状態であった。ところで台湾の中元節のうち、釈教(後述、注6参照)によるものはあまり知られていない2)。それゆえ、ここに図版を添えて再度、公開することにした(2012.8.25)。

  1)「10月5日 野村伸一・鈴木正崇「台湾・福建の中元節について」所収のpdf資料。http://www.flet.keio.ac.jp/~shnomura/repo2001/cyugen.pdf
2)こんななか、次のものは台湾客家の花蓮県大鎮玉里鎮における釈教の中元祭祀を扱ったもので注目される。楊士賢「玉里鎮協天宮乙酉年慶讃中元祭典記実」『民俗與文化』五(普度文化専刊)、台湾淡南民俗文化研究会、2008年。

 台湾では旧暦七月一日に地蔵王の管理する地獄の門戸が開き(開鬼門)、同30日に閉ざされる。そして15日は中元節といい、この前後に3)寺廟では普度を中心とした儀礼がおこなわれる。7月15日は中元地官大帝の誕生日で、廟では孤魂野鬼(一般に好兄弟(ハオションディ)、普度公(プドゥゴン)、門口公(メンコウゴン)などという)のための供養が、また仏寺では盂蘭盆の行事が盛大におこなわれる。さらに個々の家でも孤魂をもてなし一家の安泰を祈願する4)。台湾では7月は餓鬼供養の月と考え外出、遠出をひかえる。
中元節は毎年の行事で、日本人による研究や報告も古くからある5)。基本的には各地、同様だが、担い手が異なると、いくらか内容も違ってくる。以下は1997年8月15日(旧暦7月13日)の夜から17日の昼過ぎまでおこなわれた中元節の事例である。

  3)台北市大龍洞の大道公廟は12日、大稲埕城隍廟では28日など。
4)各家では一日と月末にもまつるのが本来のかたちという(鈴木満男「盆にくる霊」『民族学研究』37/3、1972年に引用の『神明来歴及年節由来』、171頁参照)。
5)たとえば鈴木満男「盆にくる霊」『民族学研究』37/3,1972年。また片岡巌『台湾風俗誌』、台湾日日新報社、1921年、鈴木清一郎『台湾旧慣 冠婚葬祭と年中行事』、台湾日日新報社、1934年。

 祭場


1.桃園県大園村仁寿宮

 国際空港の近く桃園県大園郷大園村の仁寿宮は感天大帝許真人6)をまつる古廟(図版1)で毎年旧暦7月に中元節をおこなう。祭儀の核心部分は7月13日からの3日間であるが、実際には1日の「開幽門」からはじまり30日の「閉幽門」まで、つまり一ヶ月がこの法事の期間となる。大園村は六つの小村から成り、毎年交代で祭儀を担当する。今年は内海村が担当した。

 儀礼次第

 担い手は釈教の司公  この儀礼は釈教の許淵通司公7)(1934年生まれ。台北在住)が担当し、許氏のほかに三人ほどの司公が加わった。彼らは13日の夜から二泊三日、仁寿宮に寝泊まりして儀礼をおこなう。普度は一般に、「午夜」「一天」「二天」などの区別があるが、今回のものは二天(3日間)のものである。許氏は自宅に仏壇を設け「釈教振徳壇」と称する一方で、「振福堂択日館」とも称し、占いや祈祷もする。実際の儀礼をみると、仏教と道教,民間信仰の融合したものであった。祖先は漳州から渡ってきて五代目、父親も司公であった。なお、釈教は福建、広東一帯の民間仏教である。そこでは仏教の仏祖、菩薩、護法を主としてまつり、道教や民間信仰の神仙、聖人をも奉祀する8)。

  6)3世紀晋朝の人、経史、天文、地理、医術、音楽、五行、術数を究め呉真人(保生大帝)に教えを求める。のち晋后や百姓の苦難を救い、朝廷から封を受け感天大帝とされる。以上仁寿宮の案内。
7)一般に司公、老師とよぶ。なお、楊士賢によると,大陸での俗称は「香花僧」「香花和尚」(郷花和尚)、台湾では「師公」「司功」「斎公」「和尚仔」(客家での呼称)とよぶという(前引、「玉里鎮協天宮乙酉年慶讃中元祭典記実」、192頁)。
8)前引、楊士賢「玉里鎮協天宮乙酉年慶讃中元祭典記実」、192頁。


 慶讃中元醮典科儀表  今回の「慶讃中元醮典科儀表」(式次第)をみると、仏教、道教の用語で細分され、その数は50余りにもなる。そのうち、主要なものを取り上げると、次のようになる(日付はいずれも旧暦)。
 7月13日の午後、廟前に燈篙を立てる(斗燈定位)。燈篙は天地の神と各方面の孤魂をよび迎えるための壇ともなる(図版2)。灯りはまだともさない。深夜、祭壇を飾り付け,その際に点灯する(斗燈陲火)。


2.燈篙。左端は地灯(七星燈)。中央は天燈、右端は主醮灯(人)。


1.天界の諸神への通知
  7月14日午前1時過ぎ 起鼓鳴金 
廟内での奏楽、つづいて司公は外に出る。燈篙の前で公鴨(鶏)を手に取り、燈篙の周囲を浄める(図版3)。そうして灯りをともし、孤魂に対して普度の挙行を知らせる。廟内で奏楽。
  14日午前2時少し前 発表上章
 司公は村民たちに代わって神仏に向け中元祭祀の挙行を告げる。あわせて、祭壇の周囲を浄め(図版4)、祭儀の無事進行を祈願する。30分ほどで終了。


3.燈篙の周囲の浄化。

4.発表上章。


2.神仏の来臨を仰ぐこと
  14日午前7時半  啓請諸仏 奉請三界
三界(天、地、水)の諸仏、法界の羅漢、護法の龍衆などをよぶ。また三官大帝を奉安する。

3.孤魂野鬼、神がみがよりくるようにと旛を立てること
14日午前8時過ぎ 監列神旙
 つづいて外にいき、大士爺(鬼衆を統率する鬼王)(図版5)、山神(図版6)、土地神(図版7)、また王侯、将兵、官僚などの死者、孤魂を奉安する。


5.大士爺

6.獅子に乗る山神。

7.虎に乗る土地神。


4.仏事。終日、経文を連続して十巻分、読み上げていく。この間に神がみの昼食、夕刻には孤魂野鬼を招くべく行列をなして水辺にいき灯篭を浮かべる。
14日午前9時過ぎ 梁皇開巻
  「一巻歓喜宮」以下経文読み。この経は『梁皇宝懺』とよばれる。梁武帝の后郗氏は人を嫉み、僧を貶めるなど罪が深く、死後、蠎蛇となった。その救済のために梁武帝が宝誌公禅師に依頼して編纂したものが『梁皇宝懺』である。これを読むことで、孤魂は極楽世界にいくことができる。一巻を読み終えるごとに、司公は翰林院(寒林所、後祀ある者たちの墓所)と同帰所(無祀孤魂の墓所)(図版8)の前にいき回向する9)。

  9)前引、楊士賢「玉里鎮協天宮乙酉年慶讃中元祭典記実」、198頁。


8.同帰所、無祀孤魂の墓所。


14日午後7時過ぎ 燃放水燈
 放水燈は灯籠流し。水府の孤魂を迎えるためにやる。廟から水辺までのパレードがある(図版9)。一行のなかには鬼神も混じる(図版10)(図版11)。水辺で放水燈をする(図版12)。水辺でよび迎えた孤魂は廟内に設けた寒林所、同帰所に奉安する。そして供物献上(図版13)。夜、11時過ぎ、7月14日の祭儀終了。
 なお、台湾各地の放水燈の方式は一様ではない。中南部では、この儀礼は「煞気頗重」とみて,廟関係者を除くと、一般の人びとはあまり参与しない。一方、北部では異なる。すなわち、そこでは「宗教と芸術の嘉年華会(カーニバル)」のごときものとなる。人、神、鬼が共歓し、にぎやかな雰囲気に包まれる。基隆の14日放水燈はとくに名高く、国際的な観光行事ともなっている10)。


9.廟から水辺までのパレード。北部は賑やかに行進する。

10.一行中の鬼神。

11.一行中の鬼神。

12.放水燈。孤魂を招くためのもの。

13.孤魂のための膳。


5.神仏や餓鬼に菜飯湯を献上すること、台上に茶碗、箸、酒も用意。司公の踏み鎮めの動作が特異。
  15日午前9時少し前 金山拝疏 外教供養(土地公供養) 六神献飯 叩謝三界(三官への拝礼)天厨妙供
 この日の早朝、一年間、飼育してきた供犠用の豚を屠殺する。
 金山には観音と大士爺などがまつられる(図版14)。また金山の前には孤魂のための食膳が用意される。この諸霊に食べ物をあげる(金山拝疏)(図版15)。天厨妙供は俗にいう「拝天公」である。天公や三官をまつるために豚11)、山羊などの供物が持ち込まれる。司公は飯、香、花米、灯、茶、水、果物、財貨などを神がみに献上する(図版16)。

  10)謝聡輝「基隆広遠壇普度科儀與文検研究」『民俗與文化』五(普度文化専刊)、台湾淡南民俗文化研究会、2008年、33頁。
11)人びとは競って豚を大きく育てる。近隣の者同士で品評会をし、等級をつける。1997年の第一等の豚は1120台斤(約670キロ)とのことであった。


14.金山。観音と大士爺などがまつられる。

15.孤魂に供物をあげる。

16.天厨妙供。一年間育てた豚が供えられる。


6.夕刻に神がみを送り返し(神聖帰宮)、そののちに餓鬼に向かい説教をし、これを送り返す(焔口普度)。焔口普度は通例、単に普度とよぶ。
15日午後8時過ぎ、満筵浄孤  これは廟の近くの孤棚の前でおこなう。司公が孤魂讃を唱えて祈祷する(図版17)。
  燄口普度  これは中元祭儀の核心儀礼である。焔口施食ともいう。司公は「五仏冠」をかぶる。五仏とは阿閦仏、宝勝仏、弥陀仏、成就仏、毘盧仏である。これらの諸仏に守られて孤魂が往生する。司公は孤魂に対して読経し、手印などで救済をはかる(図版18)。ついで道場に用意した食べ物を孤魂に施す(施食雑類)。このあと、司公は手元にある供物を人びとに向けて投じる。これを終えると、司公は頭上の五仏冠をはずし、退場する。


17.廟の近くの孤棚の前、孤魂讃を唱える。

18.普度の核心、焔口普度。司公は五仏冠をかぶる。


7.居残る神霊、仏を送ること
15日午後10時過ぎ 勅符平安 奉送諸仏
 司公が諸仏を送り返す。また居残る孤魂を送り返すために、鶏を持ち、刀を執って烈しく舞う。この送り儀礼は烈しく、巫俗儀礼に近い(図版19)(図版20)。


19.トリを持って諸仏、孤魂を送る。

20.刀を取って諸仏、孤魂を送る。


 特徴ー演戯という視点から

無祀孤魂への配慮  身寄りのない霊魂に対するもてなしが手厚い。放水燈では、かつては各戸で手作りのものを準備し、一家の主が代表して水辺まで持参した。また名のある霊魂だけでなく、無祀孤魂らもともに沐浴し食べていくようにと、水桶や飲食物が用意される。司公はこの供養を読経と具体的な身振りで演じる。同時に15日の夕刻には家々でその入り口に膳を用意し、餓鬼を迎えもてなす(図版21)。また村人の有志は600キロを越える巨大な豚を奉納する。これは一年間、だいじに育てた供犠の豚である。
 村人の参与  こうした供養が今日なお台湾の多くの廟でおこなわれる。餓鬼供養の一方では、あそびの空間が準備される。廟前の舞台(二階に位置)では地方劇団「新鳳歌劇団」が三日間、大衆劇(『薛仁貴征東』『樊梨花』)を演じていた。そもそも奉納芸なので観客用の席はない。観る者はいない。芸人たちは廟内の祭儀とはかかわりなく芝居をつづける。一方、巨大な豚の奉納が村人たちの競争、あそびともなっていて、地区ごとに準備した豚の顔がたくみに飾り付けされ、路上に並べられる(図版22)。また7月14日の夜、廟から3キロほどの水辺に灯篭を浮かべにいく直前、大園村の路上は仮装した男女、八家将、曲技をする者たちの行進でにぎわう(図版23)。彼らは孤魂野鬼の悪さを鎮める役割をはたす。と同時に、彼ら自身も似たような者である。これらと村人たちは一体となってひとときをすごす。それは爆竹や花火、各種の音楽で盛り上げられたあそびの空間でもある。
 

21. 15日の夕刻には家ごとに膳を用意し、餓鬼を迎える。
22.廟付近では豚の大きさを競うと同時に展示会も催される。
23.放水燈のための行列には曲芸の一団も混じる。まさに狂歓節(カーニバル)の趣きがある。


 考察

 孤魂野鬼の出現  中元節での孤魂野鬼に対する供養の際、人形戯や芝居がおこなわれる。これは見せるためのものではない。では何か。それは元来、孤魂野鬼そのものの出現であったとおもわれる。たとえば、福建の莆田地区では7月に目連戯が頻繁におこなわれるが、それは不幸な霊魂、特に女性の霊魂を救済する演戯となっている。目連の母は、一般の女性,母親を代表している。それは鑑賞される対象ではない。


24.福建の三一教による霊魂救済儀礼、九蓮。

25.韓国慶尚南道密陽の病身舞(ビョンシンチュム)。

26.長崎県対馬市峰町三根上里の盆の手踊り。


 中元の芸能表現  7月中元の孤魂野鬼の救済には芸能表現が伴う。たとえば福建仙游地区では目連戯のほかに、三一教による霊魂救済がやや芸能的に演じられる(「九蓮」)(図版24)。また朝鮮では7月15日(百中(ペクチュン))には、農民のあそびが各地でおこなわれる。慶尚南道の密陽(ミリャン)百中(ペクチュン)ノリでは身体不自由な者たちを模した陽気な舞踊(病身舞(ビョンシンチュム))がみられる(図版25)。日本の盆の踊りは多彩で、今なお、各地で伝承されている(図版26)12)。
 台湾や福建では、村人たちは踊らなくなったが、かわりに八家将などの鬼神が登場する。また舞台では芸能者や人形が踊る。日本、朝鮮、中国・台湾における盆の芸能表現は表面的には異なる。しかし、背景の観念に注目すれば、それは根本的な差ではないことがわかる。これは、盆のころの芸能の原点が孤魂野鬼の慰撫にあったことを告げている。
 餓鬼供養の目的は家や村全体の安寧であった。それは東方地中海(東シナ海)周辺地域13)の基底にあった霊魂観の反映である。この根柢の霊魂観から盆以外の時期に、どのような身体演戯が生み出されたのか。その問題は、東方地中海地域の芸能研究の本質的な課題として残されている14)。

  12)図版26は対馬市峰町三根上里の盆の手踊り(野村伸一『東シナ海文化圏―東の〈地中海〉の民俗世界』、講談社、2012年、256頁参照)。
13)東方地中海とは、東シナ海地域をひとつのまとまりのある地域として把握するために提示したことばである(前引、野村伸一『東シナ海文化圏―東の〈地中海〉の民俗世界』、5頁)。また陰暦7月を鬼月とし、この月に餓鬼供養をするのは中国南方に濃厚である(松本浩一「中元節的産生與普度的変遷」『民俗與文化』五(普度文化専刊)、台湾淡南民俗文化研究会、2008年、10頁。)これにより、7月の霊魂供養は東方地中海地域に特徴的な民俗だということができるだろう。
14)ちなみに、鈴木満男は中元節の主役を無縁仏とする。そして、柳田民俗学が祖霊のもてなしを第一とし、無縁仏へのもてなしを「二次的なもの」としたことを批判した(前引、鈴木満男「盆にくる霊」、180頁以下)。同感である。従来、日本の芸能研究は登場人物のなかに、祖霊の面影をみようとした。しかし、祖霊以外の神聖な動物(とくに蛇)や無祀孤魂もまた重要な登場人物だったといわざるをえない。これらについては、前引、野村伸一『東シナ海文化圏―東の〈地中海〉の民俗世界』、第六章参照。

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