6.神クッにおけるあそび

 神クッではカミをよびまねくための祭儀性の濃い儀礼のほかに、済州島でのみみられる独特なあそびの箇所がみられる。それはノリということばを直接用いるばあいもあるし、またそうとはいわないが、あきらかにカミとともに、あるいはカミのために演戯をしているとみられる箇所もある。これらは広い意味の芸能といえるであろう。いま、それらを日程の順に記してみる。

10月15日 ポセカムサンのトジマウルクッ

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 ポセカムサンはカミに布その他の贈り物を献上する儀礼。神房は本主らのところへいって、本主の罪によりこうしたかっこうになったのだからこれを解いてほしいというかたちで演戯する。手に布を巻きつけ、これを解いてもらう演戯は神クッのあいだ、しばしばくり返される。
図版1 罪を解くためにみる者からカネを取る神房。

10月15日 祖先のための娯神ソクサッリム(photo

 チョガムジェ、初神迎え、初サンゲとカミ迎えをしておいて、イエの祖先神を本縁譚語りと踊りでもてなすのがソクサッリムである。軍雄ソクシともいう。梁昌宝神房が表情豊かにおこなった。このときは三種の祖先本縁譚のうち高典籍本縁譚がとなえられた。このソクサッリムは仏道迎え、二公迎え、堂主迎えのあとにもおこなわれた。
図版2

10月16日 ハルマンの橋のゆらぎ

 仏道迎えのなかで仏道ハルマンが来臨する。白い布の激しいうねりの模様でハルマンの威力が象徴される。人間世界に生命をもたらすお婆さんであるが、その霊力はかくも盛んということを示すのであろう。
図版3 仏道ハルマンの来臨(金秀男)。

10月17日 災いの元を絶つ悪心花折り

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 仏道迎えの末尾近くで演じられる。呉方健神房が茅でこしらえた悪心花をひとつ携えて外庭に坐 り、事故、病、喧嘩などの悪しきことを取り上げ つつ、それを除くという意味で茅をひとつひとつ 折っていく。そういう花があるのだ。そして最後にひとつ残ると、これをどうしたらいいかとみている者に問いかける。相応の人情 (カネ)が出されると、「折り取ってしまおう」といって処分してあげる。
 図版4悪心花を手折りつつ厄除けをしてやる。

10月17日 花摘み

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 同じく仏道迎えの末尾近くで演じられる。神房が西天花畑の生命の花を取ってくるという設定。実は米を盛った容器に椿の小枝を差したものを二つかかえ、本主のところへいく。そして、子供のこと家内のことをいいつつ、その吉凶を占ってやる。
 悪心花折りと花摘みは10月18日の二公迎えのあとでもおこなわれる。それは二公本縁譚が花、とくに悪心花の由来を説いているからである。

10月17日 初公迎えのなかでの僧の来訪とアギシの出迎え

 初公迎えの根本語り初公本縁譚の精髄はおそらく黄金山(天)からくる神聖なモノが、籠もりを経た地上のおとめを訪問するというところにあったのだろう。そしておとめはみごもって凡常ならぬ子を産む。それがひじょうに端的に表現される。 これは24日の堂主迎えのなかでもみられた。
図版5 初公本縁譚の核心部分の演戯。

10月18日 下位の神々をよぶ再サンゲで現れる殺気の化身

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 梁昌宝神房が人にとりついては病をひきおこすサロックに変身する。顔に白い粉を塗り、小動物のようにもぞもぞと動く。
図版6 病のもととなるサロク。下位の神霊。

10月20日 十王迎えの道ごしらえ

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 祖霊を祭場に迎える過程で具体的に道が作られる。道の上には細い竹の枝をたわめて門が作られる。この門を通過して、さらに白い布で橋が架けられる。そして招魂して霊を済度する。 この背景には次のような観念があるようだ。すなわち、死者の霊魂のいく暗いあの世、地獄の閻魔とその使者「差使」の存在、そこを司る十位の王。そして、家族と神房、また差使の力添えでそこを脱して、水を越える。そのために橋を通り、やがて明るいあの世へはいるという観念である。 朝鮮の本土ではこうしたあの世観はみられない。そこでのあの世は明暗取り混ぜたものである。おそらく済州島のばあいもそうしたものだったともわれるが、仏教の影響により、地獄と十王がはいりこみあの世が二分化したのであろう。 済州島の迎えの儀礼は道ごしらえで特徴づけられるが、こうした十王の門をこしらえることは祖 霊を迎える十王迎えのときだけであり、他のカミ迎えのときはおこなわない。
図版7 あの世の差使が十王門をみてまわる。 図版8 招魂

10月22日 李貞子氏のコンシップリにおける祖先担い入れ

 十王迎えの最後に、本主夫人李貞子氏が祖先を肩に担い激しく踊り回る。この担い入れは18日の二公迎えの最後ソクサッリムのなかでもみられたし、また24日の堂主迎えののちのソクサッリムでもみられた。祖霊を喜ばせるという よりは祖霊の力でおどるという感じである。
図版9 本主夫人の祖先担い入れ。

10月24日 金允洙氏のソクサッリム

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 高氏お母さんをはじめとした堂主を迎え入れたあとで、本主が軍雄と三種の祖先の霊をもてなす。語りと踊りの演戯。
図版10 本主による巫祖霊もてなし。 図版11 祖先本縁譚を唱える本主。

10月24日 成造寿詞のなかでの姜太公首木手あそび

 イエの新築や増築のあとに柱のひとつひとつを斧でたたいてまわり、その木の尋常ならぬことをいいたてて、イエの繁栄を予祝してあげる。金允洙氏のイエも立て替えたばかりなのでこの儀を挿入した。

10月25日 コブンメンドゥ(VTR List

 神房の道に生じた無秩序からいかにして立ち直 るか、そうした設定のもと神房の原初のかたちをもとめる芸能行為がくり広げられる。
図版12 道を失った神房の寝姿。

10月25日 世耕ノリ

 粟作りの名人セギョンの由来。嫁の暮らしがいやでイエをとび出した女がごろつきに手ごめにされて、生んだ子が瓶ドリ。この子は学問はだめだが、農作業は上手で畑を借り、馬を使って仕事をしたところ、粟の大豊作。おかげで借金もなくなり、蓄えもできるという話とともに、寸劇が演じられる。
 チャチョンビの活躍する世耕本縁譚とは直接のかかわりはないが、農耕神の本縁譚はいずれ豊作のための儀礼を伴っていたものとおもわれ、その儀礼が集約的 にこうした戯画的な寸劇に表現されているのかもしれない。少なくとも、同じセギョンという名を付けて伝承してきたことは錯誤でない限り意味があったはずである。
図版13 腹の瓶が名前を表す。粟作りにたけていて豊作をもたらす。

10月26日 前生あそび

 盲人(神房)が小巫とともに来訪して、主人側に対し、悪しきこと一切の原因、前生 を指摘しつつ、これを棒でたたき落とすと称して、むやみとたたくあそび。済州島のクッの場に訪れる下級の神霊は、仏道迎えにおけるクサムスン(子供に悪しきものを与える婆さん)、前述のサロック、疫病神ヨンガム(後述)など、いくつか典型的なものがあげられるが、盲人もそのひとつ。盲人の来訪は京畿道のクッでもみられる。
図版14 盲人が本主の家族を祝福にくる。

 以上のほかにも、済州島では疫病神を迎え送りだすヨンガムノリとか、仏道迎えのなかでいくらか寸劇風におこなわれるクサムスン送り(今回の神クッでは寸劇を伴わず供物だけで簡単に送ってしまった)、トンイプリのなかの米びつを舞わす箇所などがクッの場でみられる演戯性の濃いものといえる。そしてそれらを通じていえることは、個々の祭儀の余興ではけっしてなく、むしろそれぞれの祭儀のはじめのかたちにもどることを可能にさせる、いわば全体を集約した表現という性格が濃い。ただその手段はなぜか俗語を用いていて、そのため本質的に笑いが伴う。そしてそれは既成の秩序を覆す。
図版15 海を渡ってきたヨンガムの兄弟がもてなしを受ける。かれらはこのあと末弟を連れて帰っていく。

7.神クッの図録


神クッ−カミと人のドラマ