トップ羽黒山の松例祭

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 近世期における冬の峰は、羽黒一山の主要な行事であり、かつまたその期間が長期にわたっていた。それ故、冬の峰の諸儀礼中の種々の人間関係が、一山組織の動的な側面を示していると考えられる。そこで本小論の最後に、近世期の冬の峰の社会的意味を羽黒山の一山組織の中に位置づけて解明することにしよう。

 すでにあきらかにしたように、冬の峰はその儀礼全体が火のシンボルを中核として展開していた。すなわち、常火堂から火口の伝授をうけた両松聖が自己を浄化した上で、火口(火)を操作して験カを示し、さらに他に伝達するという構造になっていた。そこで私は冬の峰及ぴ松例祭の主要なシンボルである火の伝達に焦点をおいて冬の峰の儀礼の社会的意味を考えてみたい。その際冬の峰及ぴ松例祭において重要な役割をはたす松聖を中心として論をすすめて行くことにしよう。  近世期における羽黒一山の組織図はすでに戸川安章氏によって作成され、その研究もすすめられている。そこで以下の論述の理解の助けの為にまず同氏の研究に即して羽黒修験の組織の概要についてふれておきたい注45)

 羽黒修験は大きく、山上衆徒、行人、山麓衆徒、末派修験の四者に分けることが出来る。山上衆徒は本坊と開山堂を中心とした華蔵院・正穏院・智憲院の三先達寺、平僧寺(二一ヶ寺)、御抱寺(五ヶ寺)、看坊寺(五ヶ寺)と荒沢の地蔵堂と常火堂を守る聖の院・経堂院・北の院の三院を主要なものとしている。他に山麓の正善院、金剛樹院もこれに含められる。これらはいずれも清僧である。山上衆徒の中では、荒沢三院は多少性格を異にし、元来行人あるいは聖であったともいわれ、浄火をきり出す湯殿行など行人の修行を行なった。行人は山外禁足で、水行と湯殿行を中心とする厳しい修行をし、ひたすら権現への奉仕の宗教生活を行なった。行人は特に清浄であることが要求された。神事指南の能陀羅尼、鑰取の能林院、承仕の西性海、燈明役の大黒堂、祓川橋番の不動院が主要な行人である。なお行人は宗教的にはきわめて重視されていたが、一山の階層構造のうえでは、もっとも下に位置づけられていた。

 山麓衆徒は、羽黒山麓手向部落に居住した修験者で御恩顧分と平門前に分れている。御恩顧分は、鎌倉時代の所司代の末裔といわれる玉蔵坊をはじめ古くから修験として羽黒権現に奉仕した家柄の者で、山上や山麓の諸堂を管理したり、山上衆徒のもとで一山の諸役にたずさわったりした。これに対して平門前は後世の手向部落移住者で、修験の仲間に加わることを許されたものである。既述のように松聖はこの山麓衆徒の中から選ばれている。また松打等の諸役者は恩顧分の中から選ばれ、松例祭当日、大松明をひく等の諸役は、平門前の若者が勤めている。つまり松例祭は、平素は直接山上とは関係を侍っていない手向部落の人々(特に最下層である平門前の若者)によってなされているのである。末派修験は東北各地から関東に及ぶ羽黒派所属の修験者である。この中でも旧羽黒山神領であった庄内地方の末派や信者は土檀那と呼ばれ、特に羽黒と密接な関係にあるとされていた。

 さて話を冬の峰にもどしてしばらくその期間中の松聖の動きを追うことにしよう。松聖は修行に先立って荒沢の常火堂から火口を受けておく。いよいよ修行に入る9月20日には、手向の黄金堂・下居堂参拝、山麓諸役人への挨拶。21日には本社開山堂参拝、別当、三先達の他、能陀羅尼、能林院、西性海、大黒堂などの行人に挨拶がなされる。ここで行人に向かって挨拶がなされていることに注目したい。山内への一通りの挨拶がすむと、増川郷、松山、鶴岡など山外への勧進がある。12月になると、鍛冶本間孫兵衛から受けた火口を、行人である不動院に加持してもらう。羽黒本社での通夜、荒沢での通夜にもおもむく。そうしていよいよ松例祭当日には山上にのぼる。こう見てくると、山麓衆徒に属する松聖は単に籠っているだけでなく、荒沢(火口を受ける)−−山麓役人−−山上(別当・先達・行人)−−土檀那(増川、鶴岡−松山)−−山上−−荒沢−−山上と冬の峰の期間中、山上衆徒、(荒沢)行人、末派(土檀郡)の間を動いている。

 このように松聖は冬の峰の期間中に、羽黒一山及ぴ近郷の種々の集団と交歓しているのである。それではこうした交歓に見られる松聖と他の集団成員との関係はどのようなものであろうか。日本において人間関係を潤滑にさせる重要な媒体の役割をはたす酒を通してこの問題を考えてみたい。まず冬の峰の期間中の笈酒の招待者を眺めてみると、公的性格の強いもの(括笈酒−−先客の聖、大笈酒−−山麓役人)、行事関係者を招くもの(松明丸き笈酒−−相手の松聖・小聖、役者笈酒、精進おとしの笈酒−−役者・松打など)、親類縁者を招くもの(指補笈酒、隠笈酒)の三つに分けることが出来る。しかしこの笈酒をくみかわすのはいずれも山麓衆徒と松聖の間だけとなっている。つまり酒をくみかわしているのは、いずれも仲間うちの間である。

 これに対して、勧進で末派修験に接したり、山上などに挨拶におもむいた時はどうであろうか。まず増川郷勧進の時は宿坊で酒を振舞われる。藩主の処に行く時はこうしたことはない。12月17日の羽黒権現の通夜の時は別当から盃を頂戴し、山上衆徒とは別に酒を飲んでいる注46)。また荒沢通夜の時は松聖が御振舞の盃を出している注47)。これを見ると、松聖と増川の関係は、松聖の優越を感じさせる。また山上衆徒との関係を見ると、松聖は別当を始め本社衆からは一段低く見られているが、荒沢の三院や行人からは親近感を持って受けとめられているといえよう(勿論その際荒沢の三院が松聖より優越した地位にあることを前提としていることは言うまでもない)。  このように酒という媒体を通して見ると、増州郷−−手向の町内縁者−−荒沢の三院−−山上衆徒という一山の階層構造を推定することが出来る。松聖は冬の峰の期間中にこの階層をことにする諸集団の間を、荒沢−−山麓−−山上−−山麓−−近郷−−山麓−−荒沢−−山麓−−山上と、山麓の自坊を根拠にして動いているのである。この動きは何を意味しているのであろうか。本項の最初にあげておいた、火のシンボルを中心に置いた冬の峰の儀礼構造のうちにその解答を求めてみよう。

 松聖は行に入るに先立って荒沢の常火堂から火口を受けている。そして以後冬の峰の行中は「湯殿行火立略法」に従ってこの火口で炉に火を作り別火行に入る。目坊で修行する松聖が管理しているこの火は大晦日には補屋に移される。そしてこの火が若者組頭の手で大松明に転せられて、焼き棄てられるのである。一方12月23日、荒沢に籠った松聖は、常火堂から鍛冶が打ち、行人不動院が加持した新しい火口を受けてくる。この火口は松聖によって祈念をこめられ、松例祭当日の松聖の代理をする松打によって火の打替の競争の時用いられる。これによって新しい火が作られるわけである。そしてその打勝った方の松打の火はその後1年間本社の燈明として用いられ、負けた火は山麓の玉泉寺に送られ、不幸を清める火とされた。

 以上の火の伝達を見ると、大松明をやく火(古い火)と松打が新たに作り羽黒本社の御神灯となる新しい火の二つのものが認められる。そして、両者の場合とも、常火堂(鍛冶・行人)−>松聖(松打)−>本社・玉泉寺を始めとする山内諸社、という火の伝達の回路が認められるのである。この火の伝達の回路は、行人−>松聖−>山上及び山麓衆徒という冬の峰の場における一山構成員相互の関係を示しているものといえよう。

 次には冬の峰の結願の行事である松例祭に焦点をおいて、そこに於ける種々の神事に対する羽黒一山の各構成員の参与の仕方及びその相関を眺めてみることにしよう。するとまず大松明丸きは、両松聖、小聖(役者)、手向の山麓衆徒が行なう。その他の準備の儀礼はすべて山麓衆徒特に平門前の若者組があたる。

 験競べと松引出しの部分はきわめて興味深い。まず験競べは、所司前(その年の一山の政務をとる先達寺−−一年交代)、別当、両先達の出仕のうえで能陀羅尼の指導を受けた山上衆徒12人が行なう。そして所司前の先達が勝負を判定する。たたし兎の神事第五番のものか両松聖直属の小聖(山麓衆徒)であることは既述した通りである。一方松引出しは、山麓衆徒中平門前の若者が従事する。ここで興味深いのは、これらの神事はいずれも松聖の験競べとされていることである。つまり験競べをする山上衆徒や松引出しをする山麓衆徒は松聖に操作されているのである。しかもこの山上衆徒と山麓衆徒は第五番目に験を競う松聖直属の小聖(この折のみ松聖の名が呼ばれている)によって儀礼上は結びつけられている。最後の国分の神事では、所司前と役者(手向部落の恩顧山伏)との間で羽黒と熊野の支配領域の分配がこころみられている注48)。また火の打替は松打、かど持ち(いずれも恩顧分)が験競べをしている。

 以上のように松例祭の場においては、松聖は山上衆徒、山麓衆徒に自己の超自然力を付与して験くらべを代行させているのである(なお行人能陀羅尼が山上衆徒の験くらべの指南をしていることは、松聖が行人の修行をしていることと対比させて見るときわめて興味深い)。さらに松聖は兎の神事と大松明引き出しにおいては、火を媒介として山上衆徒と山麓衆徒の儀礼上の結合をはかっているのである注49)

 一方荒沢の諸寺院は直接には松例祭には参加していない。ただ常火堂の火口を通して松聖に影響力を及ぼしている。荒沢以外の行人は自己の修行を行なわせることで松聖に影響力を及ぼしている。ここでさきの火の伝達回路にもとづく行人−−松聖−−山上及ぴ山麓衆徒という冬の峰に見られる儀礼上の位置を想起していただきたい。松聖はここに見られるように、行人の宗教的なカに支えられて、松例祭の場において、自己の代務者(小聖)を媒介として山上衆徒と山麓衆徒を象徴的にむすびつけているのである。換言すれば、火の管理能力という荒沢や羽黒行人の宗教的権威(それを象徴する松聖)のもとに、羽黒一山の行政をあずかる山上衆徒と東北各地の末派修験を先達する山麓衆徒が結びつくことを劇的に表現したものが、冬の峰及び松例祭(特に兎の神事と松引出し)であると見ることが出来るのである。

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注46)「羽黒山松聖旧事記并改制帳」原田敏明編『日本祭礼行事集成』第2巻、30−31頁。

注47)上掲書、31頁。

注48)国分の神事は羽黒と熊野が支配権を争うものと説明されている。しかし所司は羽黒の山上衆徒で、役者は山麓の恩顧分から出ている。そして論争の末に定尺棒を所司に奉納し祈願をこめるのは恩顧分の代表である役者である。それ故、この神事は、山上衆徒と山麓衆徒の支配権の争いを示し、山上衆徒による支配権が確立したことを示す神話の再現とも見られる。また恩顧介である松打によって新たに火が作られ、しかもその火が羽黒権現の燈明とされている。このことは一山の行政権を山上衆徒がにぎったとは言うものの、祭司権は山麓衆徒に代表される旧勢力が保持していたことを物語っているとも推測されよう。

注49)パシュラールは「火は実に相異なるニつの価値づけ、すなわち善と悪とを同時に断固として受け入れることの出来る唯一のものである」(バシュラール、前田耕作訳『火の精神分析』)と述べている。すなわち、火というシンボル自体が異質のものを統合し得るカを保持しているとされているのである。 


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