第3章 担い手
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祭事を主宰する神職は、
宮司、
禰宜、
権禰宜
からなる。
一般の人々で、
祭事に携わり舞をする旧家は祝子(ほうり)といい、
代々世襲で12家あったとされ、
神楽もこの人々によって舞われてきた。
明治時代以前は、
同族祭祀や家清め、
葬祭も行ない、
長男相続で、
古くは通婚についても制限があったらしい(
石塚
、
224頁)。
この家々は祝子株ともいい、
今日まで続くのは6〜7家で、
継続が困難になっている。
 
現在では、
祝子を希望する、
願って祝子にしてもらう願祝子(一代限り)として神楽を舞えるようにしている。
大正時代頃からともいう。
立願は、
病人、
不幸な者、
身体虚弱者などが願を掛けて祈り、
病気平癒や問題の解消の後に、
舞人として仕えることが多かった(上げ子ともいう)。
本祝子と願祝子には格差があり、
祭典には前者は烏帽子、
狩衣、
後者は烏帽子に素襖で参列したが、
今では同等で双方を合わせて祝子とし、
30人前後である。
銀鏡の神楽は祝子以外は舞えないのである。
神職と祝子を含めて、
その総称を社人(しゃにん)や社家とも言う。
 
しかし、
古くは神楽の担当者は高千穂では法者、
椎葉の向山地区では験者、
西米良ではホシャ、
ホウジャと呼ばれ、
薩摩の神舞も同様であった。
祝子という名称は、
修験の子孫、
或いは法者と呼ばれる神仏混淆の宗教的職能者が神道風に改めたものかもしれない。
 
祝子の12という数は、
上揚、
銀鏡、
八重の狩倉(カクラ、
鹿倉)の総数と同じであり、
狩倉から一人ずつ出る構成であったらしい。
狩倉とは獣が棲息する山で、
狩猟を行なう一定区域であり(
須藤功『山の標的−猪と山人の生活誌』
未来社、
1991、
280頁)、
狩りの神、
山の神を祀る狩倉社が一つずつあった。
狩倉は集落単位(部落ともいう)でもあり、
上揚、
銀鏡、
八重の12に中尾の7を加えて19ある(銀鏡神社境内の狩倉を入れると20)。
その内訳は、
上揚は横平・河之口・古穴手・征矢抜、
銀鏡は登内上・登内下・長野・秋切・杖立・田之元・栗八重、
八重には柳・上鶴、
中尾は提野・中野・奥畑・樅木・中入・戸崎である。
一部の狩倉(横平、
征矢抜など)では祭りに神楽が奉納される(
板谷徹「銀鏡神楽の初三舞」
『祭りは神々のパフォーマンス』力富書房、
1987、
382頁)。
担い手の中核である祝子は、
集落数や狩猟地域に結び付いていたと言える。
 
大祭の運営には、
氏子総代(上揚1名・銀鏡2名・八重1名・中尾2名、
計6名)、
世話人(狩倉、
つまり部落ごとに1名で、
計20名。
祭日に社務所に詰めて奉仕)、
肝煎(きもいり、
1名、
連絡係)、
目台(もくだい、
1名、
台所責任者)、
神任(かんにん、
小使)があたる。
これを支えているのは、
氏子・崇敬者である。
氏子と崇敬者に分けて氏子の寄進額を多くして差をつけている。
当日の祝儀がこれに加わる。
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