東シナ海祭祀芸能史論のすすめ(補遺 ; 図録、映像)
                                              野村伸一

 付記
 本稿は、 「東シナ海祭祀芸能史論のすすめ」韓国・朝鮮文化研究会編『韓国朝鮮の文化と社会』第7号、風響社、2008年、142-153頁に掲載した原稿に図版と映像を補ったものです。この種の資料はできるだけ幅広く公開するべきだと考えます。限られた環境で一人、研究をつづける方たちに少しでも役に立てば本望です。(2008.11.6)。
 


   東シナ海祭祀芸能史論とは何か

  東シナ海祭祀芸能史論とはほかでもない、東シナ海を取り巻く地域に関する祭祀と芸能の史論である。一体、そのようなものに意味があるのか。古今、そうした研究領域が設定されたこともない。
そうではあるが、東シナ海周辺には今なお数多くの祭祀と芸能がある。それらに魅了される人も数多い。

 <その原風景> 

 東シナ海周辺の祭祀と芸能、その原風景。それは次のようなものである。
 朝鮮半島では巫女のクッ、農楽隊による地神踏みと堂山のまつりがある。また、仮面戯の一団。これは保存会による維持の段階となり、わたしの記憶から幾分、遠くなりつつあるが、寺を根城にした放浪芸人男寺党の傀儡戯は鮮明である。済州島の神房の祭祀には整った体系、豊かな巫歌の世界があり、その歌と巫の演戯には芸能者を想定させる点もある。
 一方、沖縄ではまず聖なる森ウタキがある。そしてそのかたわらではウンジャミ、シヌグなどのまつりがある。老若入り交じった女たちのウスデークやユークイは周囲の誰をも安らかにしてくれる。それだけでなく、年の交替期シチや豊年祭の賑わいは自発的なもので今なお屈託がない。そして、台湾人は媽祖や王爺の祭祀に以前にも増して傾倒している。
 他方、中国江南においても、改革開放以来、祭祀と芸能の復興はめざましい。観音や媽祖信仰は日増しに拡大し、さらに、江南各地における寺廟規模の盛大化と奉納演劇数の増加は驚異的である。
 それだけではない。中国の内陸部に目を向けると、そこにはこの20年ほどのあいだに、ある種の熱気を帯びて掘り起こされた儺戯(儺文化)という名の祭祀芸能がある。ただし、これはわたしの原風景において、今のところはいささか遠景に位置づけられる。

 一定の筋道-基軸の設定  こうした原風景に一定の筋道を付ける必要がある。わたしの方法は愚直なものである。まずは現地にいく。そして現在の祭祀と芸能を第一に尊重し、自分の目で確認し、その記録を整序する。そののち、現地の人びとの顔を見失うことなく、歴史を遡る。
 この方法は誰にでもできる。ただし、難点もある。手間暇がかかりすぎる。大学院の「芸能史」を長らく担当しているものの、基軸は一向にみえてこない。受講生の顔をみる。すると、困惑の思いがありありとみえる。一体、東アジアの祭祀芸能とは何なのだ?余りにもとりとめがないと。

  <祭祀芸能を解く六章> 

 確かにそうかもしれない。馬齢を重ねること六〇。わたしとしてもこのままでは面目がない。そこで、東シナ海周辺地域に絞って、その祭祀芸能を次の六つの範疇(六章)からみることにした。

  一、 蜡祭の系譜と芸能 二、 鬼やらい(儺儀)の系譜と芸能 三、巫の儀礼の系譜と芸能  四、 女神崇拝の系譜と芸能 五、 花、蛇と祭祀芸能 六、仏教、道教と祭祀芸能。

 上海遊学の時を得て、呉(長江以南銭塘江以北)越(銭塘江以南)の文化に関連する諸文献に接した。そして、東シナ海の要に位置する舟山群島のいくつかの島嶼(普陀山、舟山島など)を歩いた。また福建、広東の地方劇をみた。その結果、この六章は多くの祭祀と芸能を解くことがわかった。

   摘要と新たな知見

 以下、上記各章についての摘要と朝鮮半島に関連してみいだしたことがらを記してみた。

  <摘要1> 


正月の綱引き。農楽隊には仮面の者も付き従う。儺の要素とともに農耕の予祝、占いを兼ねる。西()女性が勝てば豊作。韓国全羅南道霊光群平金。

沖縄西表島祖納のシチィは1年の更新時の祭祀。ミリクは遠来の神。ミリク舞で豊饒を招来する。

古宇利島ではウンジャミにつづいて豊年祭をする。長者の大主が子孫を連れて現れる。これは中国の祭祀芸能の形式と同じ。沖縄県今帰仁村

弄婆羅門の系譜。楊州別山台戯の「破戒」僧の場面。1987年ソウルノリマダン

ハルモニ堂山は銀杏の古木。1988年、全南光州市漆石洞
 

万寿大宅クッのあそび-庭クッ。遠い道のりを歩いてきた。喜びつつ踊る。クッにはこうした者たちは欠かせない。一種の慰霊。

映像(万寿大宅クッ) 万神(巫女)による素朴な演戯。これを男巫がより演劇的にやれば、儺戯になるだろう。



  *写真は拡大できます。

 東シナ海周辺地域では農耕にかかわる祭祀と芸能が最も基層に位置する。この地域では収穫後の感謝、翌年の実りへの予祝を蜡祭としておこなった。蜡は元来、中原地方で展開したが、江南でも伝承されてきた。蜡は八種類の神を迎えるので八蜡ともいう。『礼記』郊特牲によると、主宰者は天子である。しかし、元来は巫儀であったとみられる。
 蜡では猫や虎の神が現れる。また鹿や女性が登場する。これには狩猟と女色に耽れば国は滅びるという訓戒が伴う。これらはおそらく演戯されたのであろう。巫俗儀礼に演戯は付き物である。そして、虎と害獣の闘いの演戯などは秦漢代の角觝戯に受け継がれた。また年末の蜡祭は漢代には臘祭となった。臘では祖先祭祀もなされ、さらに悪鬼を逐う儺とも密接にかかわっていく。儺は臘祭の前日におこなわれた(『後漢書』)。
 年末の蜡、臘は、のちには年初の予祝の祭祀にも引きつづいていく。これは儺が時代とともに儺戯となったことと関係がある。つまり、複合的な意味を持った儺戯が正月上元のころの祭祀として、また春の社(土地神)の祭祀の重要な一部として演じられるようになる。これは、蜡祭に関係した巫覡や優人が儺戯や臘祭にも関与したからだとおもわれる。
 蜡は農耕感謝祭にとどまらず、年の更新時の祝祭となった。それは人びとを熱狂させた。蜡祭の設定により東シナ海周辺地域の祭祀芸能は互いに結びつく。儺、上元前後の農楽隊の祭祀と演戯、社の演戯(社火)、南島のシツ、豊年祭などが一連のものとして捉えられる。

  朝鮮半島周辺との関わり1  朝鮮南部の堂山はハルモニ(女神)を優位にすることが多い。中国江南の社神もまた元来は母と同義であった。社は桑林、生命の温床でもあった。
 江南では近代まで年末に蜡の意味で「謝年」がなされてきた。また、浙江省紹興では大晦日に先祖をまつった。この大晦日の祖霊迎えは朝鮮南部新安郡島嶼部にもみられる。
 また、正月のあそび統営五広大(仮面戯)にタムボという虎の面相の怪獣が現れる。これは従来、獅子として解釈されてきたが、蜡祭の虎に遡るものだろう。今日、朝鮮半島の仮面戯はソウルを含む中部の儺戯、儺者の伝承を中心にして説かれている。しかし、蜡祭と一体化した南方の儺の系譜を見直す必要がある。


  <摘要2> 


葬礼に使われた方相氏。寄りくる雑鬼を退散させる。

植民地時代までは方相氏の顔も古典の記述に沿って四目。

これは方相氏の部下だろうか。

    関連リンク 「村山智順所蔵写真選」所収「死と葬礼


儒学者権龍鉉先生の踰月葬で使われた方相氏。1988年。


柩の前に立つ方相氏。数がふたつで表情も前出の方相氏とはいくらか異なる。脇の銘旌には「正六品通川郡守江陵崔公之柩」とある。官僚の葬送。


正月の地神踏みの農楽隊に伴うマルトゥギ。鞭の代わりをする棒杭を持つ。これで雑鬼を祓う。泗川郡駕山里。

石垣島川平のシツの夜に訪れるマユンガナシ。五穀の栽培方法を教え、家を祝福する。

福建省仙遊の北斗戯末尾でおこなう過関。臨水夫人(陳靖姑)の主導する子供の生長祈願。

仏寺の儺者。インドラダックのラマユルでみられるチャム。アビ(婆さん、左)とその家族(右側)。道化風の者たち。

僧のダオ(仏法の敵、災厄の象徴)退治を見守る儺者。


ダオを処理するアビ、メメ(爺さん、右)。彼ら儺者は災厄を処理する来訪者。

疥癬僧(右)を殴る若い僧上佐。儺者の末裔。二人の応酬には参軍戯の名残もみられる。韓国松坡山台戯。ソウルノリマダン

参考図 民間の巫者が室内の鬼神を逐除する。古代の「郷人禓」に通じる。貴州省徳江儺堂戯。


参考図 五猖兵馬として「赶野猪」をする子供たち。江西彭沢県。康保成『儺戯芸術源流』

再生への希求。ペクチュンノリに現れる舞い手。慶尚南道密陽。撮影金秀男

再生への希求。死者たちの結婚。慶尚南道盈徳。

  厄を船に載せて流す。南方の儺の特
徴。全北蝟島。茅船クッ。撮影金秀男

   河回仮面舞踊の僧面。河回にも寺院が
あった。儺者たちの演戯、仮面は日本の翁にも通じる。撮影金秀男

兵庫県神鴨川神社の翁面。額、目、鼻などは河回の僧面を彷彿させる。『中世仮面の歴史的・民俗学的研究』より

「正統鹿耳門聖母廟」にまつられる王爺。黒い厳かな表情が特徴。台湾台南


戯神田公。福建省上坑県白砂鎮

南陽木偶劇団による戯神田公の舞。傀儡戯冒頭。上坑白砂鎮。2008年。

傀儡戯末尾の田公元帥掃台。福建省寿寧県下房村。2001年。


儺神の性格を持つ洪同知。
映像 救済者洪同知

儺神の性格を持つ御くろう。
映像 救済者御くろう

王室でおこなわれた大儺はすでに過去のものである。それに対して『論語』郷党にいう「郷人儺」すなわち民間の儺は今日にまで伝承されている(参考図参照)。ここでは東シナ海周辺地域における民間の儺の原風景を探る。それには次の三点を考慮しなければならない。
 第一点は、蜡に由来する儺。一般に年初の儺とされているもののうちには、実は蜡祭に由来するものもあるだろう。儺という名称を年末の祭祀に限定する必要はない。しかし、儺の行為の本義を解釈する上で、狭義の儺つまり鬼やらいにとどまってはならない。この方面の原風景からは韓国南部の仮面戯や仮面の群行に連なるものがみえてくる。
 第二点は、民間の儺の形成に仏教、とくに唐代以降の密教の影響を考慮すること。朝鮮半島の現存の仮面戯に儺者の姿がみてとれることは今日、すでに説かれているが、この形成を促したのは仏教だということ。
 第三点は、「南方の儺」の探求。方相氏に由来する鬼面のモノが悪鬼を滅ぼし、消滅させるものを仮に北方の儺とすると、東シナ海周辺の儺は位相を異にする。日本の南島にみられる年の切り替わり時の来訪者は穀種をもたらし、栽培の術を教える。そして、きたる年の実りを予祝する。また、江南の儺に通有の「過関」という祭祀はいわば子供の再生装置である。こうした儺を仮に「南方の儺」とよぶとき、そこでは無祀孤魂への懼れと供養、生命の更新に特徴がみいだせる。それはまた第一点、第二点とも関係する。

 朝鮮半島周辺との関わり2  高麗末に現れた広大は仮面戯と傀儡戯の担い手であった。このふたつはそもそも中国の仏教文化と密接な関係があった。寺院戯場で仮面戯がおこなわれた。日本伝来の伎楽がそうであるし、チベットのチャムもその一例である。その担い手はまた浄行すなわち門付けもした。この仮面戯では滑稽な演戯をする者が現れる。そこでは「弄婆羅門」の演戯がひとつの伝統をなした。彼らはまた寺院への喜捨を乞う。同時にそれにふさわしい演戯を披露した。朝鮮の傀儡戯にはその痕跡がみられる。
 元代の皇室から高麗王室には優人が下賜されている。しかも元の朝廷では正月に仮面戯などの表演があった(『元史』礼楽志五)。それはチャムの世界に通じる。従って、クワンデがそうした演戯を高麗朝に将来したと考えることができる。
 儺者は芸能者でもある。儺者は儺神、芸能者は戯神をまつる。この両神は実はひとつである。中国西南部の儺儀では儺公、儺婆を儺神とする。これは楊州別山台戯の開始に先だつ仮面祭祀に通じる。そこでは翁と媼の仮面を最上段に置いて拝礼する。一方、傀儡戯の洪同知には戯神、さらには儺神の姿がみられる。その他、全南で顕著な年初の潟祭(ケッチェ)では農楽隊が海辺に寄り来る死者霊をまつる。水辺に漂いくる死者霊を供養するのは南方の儺を特徴づける。

  <摘要3> 


済州島の巫舞、トランチュム
映像

福建省の巫舞、陳靖姑の舞。『奶娘伝』
映像

馬王堆漢墓一号墓出土の棺衣(中央部)。「引魂昇天」を表したもの。天上、人間、地下の三部分からなる。当時の人びとの世界観がよく示されいる。『長沙馬王堆漢墓』より。

天上部分。左右に月と日。日中には三足の金烏。月中には蟾蜍と玉兎。日の下扶桑と八つの太陽。月下には飛龍に乗る女子。日月間には人首蛇身の神(女媧とみられる)。ここは昇魂後、到達する世界か。なお、この単独の女媧は「創造女神」とも位置付けられる(『アジア女神大全』2011参照)女媧は魚類の創造者、それゆえ海の女神の性格もある(野村伸一『東シナ海祭祀芸能史論序説』参照)。

左右に青龍と赤龍がみえる。。湘君、湘夫人か。上部中央に立つのは故人(女性)故人は龍船に乗って昇天する。
地下。帳の下は祭祀の場面。死霊祭か。左に四人、右に三人の男。下部大魚の上の者は地神か。左右に亀

上掲図右側の赤龍。右に向かって開口する。

*以上、馬王堆漢墓出土の棺衣上の図像(昇仙図)。

上掲図左側の青龍。左に向かって開口する。

高麗以来、仏事の影響。巫女は巫神図を掲げ帝釈となる。この形式は寺院法会の影響とみられる。李奎報の老巫篇参照。


巫の演戯。巫歌の一部を再現。僧が喜捨を乞いにきたところ。儺戯には
至らない。この僧は帝釈神の化身である。


花で死者霊を送る。オギクッより。

死霊祭の龍船。死者の霊魂を運ぶ。オギクッの船の唄。

紀州熊野の諸手船に乗る女装の航海者(中山太郎『日本巫女史(増補版)』)。古くは船に巫女が乗り船を守ったとみられる。湖南省の民俗に通じる。


龍舟上の女子合掌祈祷図。長沙楚墓出土。龍舟は天堂への乗り物か。 競漕以前の龍舟。林河『九歌与沅湘民俗』。
男子が乗る龍舟図も同時に発掘されている。

西南民族銅鼓上の紋様。巫が合掌、祈祷。水神祭祀の風俗か。林河『九歌与沅湘民俗』


1995年の花育て。苗族の「慶古壇」祭祀と同様のもの。同祭祀中、踩田の儀では村老、巫師が竹製の花樹を携えて練り歩く。愛知県北設
楽郡。

 巫は女、覡は男。性が異なるだけでなく、本来的には憑依の程度において違ったのだろう。覡は文字を知り、そのことで女巫にはできない祭祀儀礼と儺文化を発展させた。儺文化は男巫、儺者、優人の文化であり、巫の文化そのものではない。
 文字を持たない巫の文化の探求は容易ではない。こんななか、『楚辞』「九歌」をみると、興味深い点が多々ある。それらは、今われわれが目にするムーダンやカミンチュの巫俗を一気に二千年あまり遡らせることができるかもしれない。
 九歌全体は神と霊の歌である。それは当時(先秦時代)の巫俗を反映したもので、屈原が作品として書き留めた。これは一致するが、個々の解釈となると異説が多い。そのうち、九歌が死者霊儀礼にかかわるものだという説は注目される(石川三佐男『楚辭新研究』)。とくに馬王堆漢墓出土の棺衣上の図像を取り上げ、その図により、湘君、湘夫人篇が読み解けると述べた。古典を民俗や考古遺物と関連付けて解釈するもので基本的に納得できる。 ただし、九歌の諸篇の用途は死者霊救済祭祀に限らないだろう。天地、自然の諸神を招請する巫歌は他の祭祀にも歌われる。それゆえ、湘君祭祀の時間は端午節(水神の祭日)の前後だという林河『九歌与沅湘民俗』の所説もまた興味深い。九歌に基づき東シナ海周辺の巫俗を考えるとき、次の三点は重要である。1. 巫の祭祀とその場における演戯の問題。2. 九歌にみられる龍舟(龍船)の問題。3. 九歌中の最後の歌「礼魂」における花の意味。

 〔図版補遺

湖南江永県明代木刻划龍船。船漕ぎは龍のまつり。五月端午をはじめろいろなときにやった。また五月は女の祭祀、薬草取りの時。『九歌与沅湘民俗』

伊良部島佐良浜のヒダガンニガイ。豚を一頭供えて龍宮の神に海上安全、豊漁を祈る。


全羅南道蝟島の茅船。船には案山子が載せられる。年初、龍王祭ののちに海に流す。

黄海道大同クッの末尾に、村の災厄を載せた茅船を流す。撮影金秀男

慶尚南道松亭の別神クッにおける龍王(ヨンワン)クッ。水死者のための膳が並ぶ。水中孤魂は龍王のもとにいる。

龍王クッでは水中孤魂のために供物を投じる。これは済州島でもみられる。

台湾小琉球の王船。三年に1回、代天巡狩の資格の王爺が島内を巡る。

台南県安定郷蘇厝の王船。王船は焼却され、王爺は天に帰る。童乩たちがこれを見守る。

天然痘の神を送り返す籠。食べ物とカネを入れる。船の一種。済州島

浜辺に打ち上げられた精霊船(しょうろうぶね)。長崎県宇久島飯良(いいら)


 朝鮮半島周辺との関わり3 上記の2.と3.は朝鮮の巫俗にもみられる。東シナ海周辺の地域には龍舟が人の霊を運んで始祖の地、つまり他界にいくという観念があった。そして、巫はそのための祭祀をおこなった。この観念と祭祀が朝鮮巫俗のなかで伝承されていた。東海岸のオグクッがそれである。オグクッは死者霊を女神パリ公主の導きで済度する祭祀である(詳細)。その末尾に「船の唄」があり、ここで模造の龍船が引き寄せられる。
 なぜ花をもって神を送るのか。林河はこれは少数民族の花の民俗に由来すると主張した。その花は「生命の源」「人の霊魂の拠り所」だという。同感である。西天に生命の花園があるとするのは済州島にもみられる。そして、またオグクッの最後に近い箇所で、巫女たちは手に造花を携え「花の唄」を歌いながら舞いつつ霊を送る。これは九歌の末尾と同じである。
 そして、重要なことは元来は故人の霊魂が花とともに蘇ると観じられていたことである。
 以上は「九歌」とのかかわりでみたものである。ただし、朝鮮半島の巫女の儀礼は仏教儀礼を通して後代にさまざまなものを受容し、祭祀芸能化している。パンソリの形成にも当然影響を与えている。

  <摘要4>


女媧・伏羲。漢武梁祠石室。(『佛教芸術』2)
単独の女媧像は馬王堆漢墓一号墓出土の棺衣上にみられる(摘要3参照)

女媧・伏羲。高昌出土壁画。(『佛教芸術』2)

四平戯の冒頭に現れる八仙を従えた王母娘娘。王母は通例、儀式劇に現れる。福建省政和県
王母は恐ろしい異類の様相(『山海経』)から紫雲に乗る高貴な女王(『漢武帝内伝』)さらには不老長生の象徴と変容する。南北朝では東王公と併称され、明清では玉皇の配偶神となる。台湾の瑶池金母は西王母の別名。(後掲「図版補遺」参照)

白衣の女人観音。堕獄の劉氏を救う女神でもある。福建省南安草亭寺の目連戯。

水月観音。五代943年、ギメー美術館。『西域美術』、第1巻

水月観音。1310年、鏡神社。『高麗時代の仏画』

水月観音。14世紀初より以前か。大徳寺。『高麗時代の仏画

補陀落山のかんと善財。華厳五十五所絵巻より。『善財童子 求道の旅』

海の観音、普陀山の南海観音。

海の観音、舟山群島を往来する船のなかにまつられた観音。船中の観音祭祀は遣唐使船にもみられた。千年を遙かに超える海洋文化といえる。浙江省舟山市岱山(ダイシャン)県

現代の白衣観音。左同


海の観音、朝鮮半島の白衣観音。韓国全羅北道禅雲寺

風濤のなか救いを求める海商。高麗時代、朝鮮商人は普陀山を経て明州にいったが、朝鮮時代にはみられなくなる。禅雲寺



冥府で苛まれる劉氏。代受苦の化身。

映像:目連戯中の観音と劉氏(2002年南安草亭寺の記録)
山賊李純元の居所が観音の力で普陀境となる~観音、羅卜に母の破戒を説く~地獄の劉氏~観音雪獄(劉氏救済)


『鬼来迎』末尾、死出の山
( 死出の山の設え。鬼による亡者への呵責。観音による代受苦の申し出。観音による亡者救済。亡者の成仏=鬼の退場)
千葉県山武郡横芝光町虫生広済寺

福建省古田県臨水祖廟
野村伸一「福建民俗紀行」(『日吉紀要言語・文化・コミュニケーション』No.27、慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会、2001参照。

臨水祖廟付近の百花橋。女神臨水夫人の前の「過橋」の祭儀ではこの橋を通過する。右側大きな農家の左側のところに陳靖姑と夫の劉杞が住んだ。現在は廟。

閩江のほとりの龍潭角。身重の陳靖姑は生前ここで雨乞いをし命を落としたという。


宋代の媽祖像。文革時には密かに隠された。媽祖出生地福建省賢良。
媽祖はもとは巫女か。龍女ともよばれた(南宋『臨安志』)。元代に天妃、清代に天后とされる。道教では天上聖母。その出生には観音の授けた花との関係が説かれる。

臨水夫人陳靖姑。福建省古田臨水夫人祖廟。

朝鮮半島の巫俗の死霊祭を導くパリ公主。棄てられた王女の伝承には妙善(観音)とのつながりがみられる。
パリ公主は死者霊を連れて地獄の門を通過する。この先に地蔵のいる蓮池堂がある。ソウルチノギセナムクッ

道士は枉死城に幽閉された死者霊を解放して昇天させる。台湾台南の打城

霊の道裂き。神霊の道「白布」は東シナ海地域に共通してみられる。

シンガポールの普度における亡霊たちの道(実は福建省莆田の民俗)。2004年

全羅南道シッキムクッの龍船。ただしチノギでは龍船は使わず、霊は鳥や蝶になって飛翔する。撮影李京燁


死者霊との対話ヨンシル。祭儀の依頼者は正真の俳優に近い境地だったのだろう。

目連戯。冥府の六殿で目連は亡母に会う。霊との対話を戯曲化したもの。

四平戯『白兎記』末尾、母子再会。目連と母の再会を踏まえたもの。南戯の象徴的場面。

目連戯の三殿超度では目連による救済儀礼を通して故人の霊と家族の対面が間接的になされる。これは家族にとって最も切実な場面である。福建省莆田県北極殿


済州島神房によるヨンゲウッリム(霊魂泣き)。祖霊供養「十王迎え」では必ず祖霊の神意伝達がある。このとき遺族は神妙に聴き入る。1986年神クッ
詳細は神クッの図録10月19日の項


 〔図版補遺

1(-7) 台湾鹿港龍山寺。観音をまつり、別名観音寺ともいう。

2龍山寺の観音。

3鹿港では天后宮の媽祖と並んで観音が篤く信仰される。各地の進香団は媽祖廟訪問の前に観音にまみえる図中央は一団の先導者。

4龍山寺に立ち寄る千里眼、順風耳。このあとに媽祖がくる。

5媽祖の神輿の到来。

6雲林県麦寮拱範宮から帯同された媽祖。しばし観音(左側)の前に置かれる。

7媽祖の神輿の下を潜る人びと。台湾ではこうして神の加護にあずかる。

莆仙戯中の王母。福建省楓亭麟山宮。

莆仙戯中の王母、八仙にかしずかれる。長寿の象徴。福建省楓亭麟山宮。

旧正月、仮設舞台での儀式劇『蟠桃赴会』に現れた王母。広東省汕尾

瑶池金母(ヤオチジンム)(西王母)。台湾松山慈恵堂。

瑶池金母は甘粛省涇川県に生まれ1949年に台湾にきた。旧暦7月18日が誕生日。日ごろ、女性たちの参拝が絶えない。

明代青陽腔『香山記』「第二十五出」挿図。周秋良氏提供

河内観心寺の如意輪観音像。『日本の美術』No.166

巫俗の龍王は男性の趣き。ソウル。『韓国巫神図』。ただし済州島の潜嫂(チャムス)のあいだでは龍王(ヨワン)はむしろハルマン(女神)が一般的。



龍王(上)と境主公(下)。台湾鹿港、新媽祖廟。

龍王(拡大)。台湾鹿港、新媽祖廟。

浙江省嵊泗島の古刹、霊音禅寺前身は後晋天福8(943)年創建の資福院。


旧暦2月19日、観音の誕生日に読経する僧たち。

信徒らは18日の晩から拝礼にきて、朝を迎える。夜が明けるころ、僧に導かれて行道する。

大雄殿での祈祷。観音の誕生日は各地の寺院でこんな光景がみられる。普陀山にいくいとまのない人たちは近隣の寺にいく。こころは同じ。

 東シナ海周辺においてこの千年間の祭祀空間を生彩あるものとしてきた主役は女神たちである。ここでの論点は四つ。1. 観音以前-始祖女神たちと芸能 2. 西王母およびその周辺の女神たちと芸能 3. 女人観音と芸能 4. 観音以後の女神たちと芸能。
 観音と媽祖の祭日はこの地域の正真の「母の日」である。ただし、その前には太陽女神や天地創世の女神への崇敬があった(野村伸一編著『東アジアの女神信仰と女性生活』)。上記3については「観音戯論の不在」が問題となる。目連戯に較べて観音の演戯(映像 三殿超度と観音掃殿)を論じることが少なかったのは女性生活史への視点がなかったからであろう。明代以降、観音の演劇上の姿は多彩となる。宋代に発生した観音の物語『香山宝巻』には女人の受難とその克服、そして菩薩への転化がみられる。明代の青陽腔『香山記』では妙善の処刑過程、死後の霊魂の冥府行き、他の亡魂の救出などが克明に語られ演じられる。この演出は観音による女人救済の究極の表現といえる。ただし、多くの戯曲では観音は白衣の女人として聖化されていく。宝巻や観音戯を通して観音の奥深さが作られていった。
 観音以後の女神としては媽祖、臨水夫人(陳靖姑)、朝鮮半島のパリ公主があげられる。ここではまた次の三点が論点となる。1. 観音以前の海の女神-媽祖の戯劇がないこと 2. 巫俗と道教-臨水夫人を主人公とした夫人戯の存在 3. パリ公主の主導する祭祀-未発の芸能。 1ではまた女性の髪、持ち物をフナダマとするなどの一連の民俗を説明する。

 朝鮮半島周辺との関わり4   パリ公主(映像)は朝鮮巫俗の核心のひとつ「死霊祭」を成り立たせる女神である。その祭儀は巫女による祭祀芸能のひとつの到達点でもある。チノギセナムクッ*2ではパリ公主に変身した巫女が死者霊を導いて「地獄の門」の前にくる。そして門衛との対話を経て通過をはかる。この種の問答は道士による「打城」、また目連戯にもみられるもので、共通の冥府観による(野村伸一編著『東アジアの祭祀伝承と女性救済』)。また、パリ公主の取り計らいにより遺族と亡魂の対面がある(ヨンシル)。
 目連戯や観音戯では、物語を中断して超度が挿入される。これに較べると、巫の祭祀のばあいは、中断感がない。このヨンシルは死者霊祭祀の核心部でもある。これは男の巫や儺者の仲介ではできない。男の演じ手のばあい、ヨンシルと同じ効果をもたらすためには演劇というかたちを取るほかはなかった。
 南戯はこうしたところから発生したとみられる。朝鮮では、その環境がなく、結果的に舞台での演劇は生じなかった。

  <摘要5>


1990年、貴州省苗族の跳花全景。

映像1/映像2

花の樹を競い取る人びと。これは米の増収、厄除けの力を持つ。


2008年正月、広東省汕尾の採花枝。財運、子授かりのために。

花婆。媽祖に匹敵する女神。

芙蓉花。道士は「梗花欉」のあとにようにと依頼者に芙蓉花を贈る。これを育てると、子が授かる。台南臨水夫人廟

1986年済州島の「花盗み(コッタム)」。西天花畑から持ち帰った生命の花。これで祈願者のために花占いをする。仏道迎えの儀。

1997年、オギクッのなかでパリテギを唱える巫女。一段と大きな花をかざす。

悪心花折(アクシムコッタム)。悪心花とは病災、とくに子供の災厄、これを折って除く。済州島仏道迎え

道士は依頼者の目の前で弱った花の根を強化する。また萎れた花は折取る。花の生命は人の生命と同義である。台南臨水夫人廟

映像「ハルマンの橋のゆらぎ」/映像「神クッにおけるあそび


1986年、兎山堂ポンプリを唱え蛇神の顕現を演じる神房。

2008年、広東省汕尾の漁村。船は木龍。それは蛇に遡る。

 古代の越人は蛇や花と親密な関係を持ち、これをまつってきた。それは今なお民俗世界にみられる。湖南省の越系諸族の間では花が生命の象徴、霊魂の拠り所とされ、祭祀がおこなわれる。壮族の始祖女神は花婆、花王聖母とよばれる。花山に住み花を育て、人間に花(子供)を送る。また稲作、牛の飼育をも教えた。苗族の跳花では花の樹のもとで男女が踊り、豊作が祈願される。花の樹には除災の力があるので家に持ち帰る。男女はまた花のある山で交歓する。福建や台湾では百花橋を生命の花園とする。花は生育儀礼に不可欠である。済州島でも生命の源は西天花畑にあるという。花の意味を解く巫歌は僧または法体の巫が招来したのであろう。日本では花摘み袋が使われた(折口信夫「花の話」)。独身者の死は花を袋に入れて弔う必要があった。それは死者霊が花山に帰ることを意味する。
東シナ海周辺地域における蛇の祭祀と芸能は多様で根柢が深い。論点は四つ。 1. 蛇祭祀の両面-東シナ海周辺地域では、蛇の祭祀は明、暗に両分されること 2. 人頭蛇身の神-龍、龍舟祭祀以前のかたち  3. 蛇を祖先とする人びとの祭祀 4. 海神の祭祀変遷史-蛇の祭祀と龍の祭祀の分離。 『説文解字』によれば、南蛮も閩も蛇種(蛇の末裔)である。歴史を一貫して蛇を崇敬する民俗はみられる。侗族の始祖女神は蛇であった。しかし、仏教、道教、儒教はこの祭祀を否定的なものとした。済州島などでは蛇神祭祀が語りにくいものとなった。4では海神信仰のはじめに蛇があったことが示される。

 朝鮮半島周辺との関わり5  越系民族の花園は花婆あるいは花公花婆の神により管掌される。一方、済州島では仏道ハルマンという女神と二公という男神がいて、これが生命の花を管掌する。それぞれは別の巫歌で語られる。仏道ハルマンは命長国(メンジングゥク)のむすめである。東海龍王のむすめとの競争に勝ち、生を司る。龍王とそのむすめは死を管掌する。こうした対比は仏教がもたらしたのであろう。
 他方、二公の巫歌は朝鮮本土の『安楽国太子経』と同じ内容である。その話では息子のためにわが身を犠牲にする母が現れる。それは実は観世音菩薩である。つまり、これは女人観音の代受苦を骨子とした物語であった。
 中国沿海部と同様、済州島でも明暗の蛇性伝承がみられる。一方は家を護り、村の祖先ともされる蛇神、他方は既存の秩序を脅かす、邪な蛇神である。だが、周辺地域の伝承を踏まえれば、七星本縁譚に代表される蛇神信仰がより基層にあったといえる。済州島の伝承では海彼からくる女神が富や豊饒をもたらす。家の守り神となった蛇神にもそれがいえる。蛇だけではなく、人も物も文化もともに到来した。その記憶をポンプリは語っている。
 原初の海神信仰には木龍や蛇があった。木龍は広東省汕尾市の漁村では正月になると今なお墨書されて船先に貼られる。一方、朝鮮半島西南部海域で知られたケヤンハルミは竹幕洞の後ろのヨウル窟から姿を現わし、海を開いたといわれる。それは九州の宗像三女神と比肩できる海神であった。そのどちらにも原初的な海神にして蛇神の姿がうかがわれる。

  <摘要6>


目連戯の無常鬼。舞台の脇にまつられる。物語の登場人物でもある。無祀孤魂の頭領で最後は船で送られる。シンガポール九鯉洞
目連戯にみられる女吊。銀奴の死。由来の古い女性冤鬼を舞台化させることで慰撫する。これは仏教法会と女性観客の意向の相互作用によるものだろう。          シンガポール九鯉洞

目連戯中の鬼卒、遊村逐鬼。閻王が劉氏を捉えにいかせる。目連戯は鬼神のあそびでもある。シンガポール九鯉洞

目連戯中の転蔵。故人の霊魂が塔の回転ととともに済度されて上昇する。シンガポール九鯉洞

劉氏回煞。死者霊が故郷、家に戻るのは民俗。シンガポール九鯉洞

三殿超度に臨む目連。シンガポール九鯉洞

三殿超度で超度儀礼をする目連。シンガポール九鯉洞

傅相一家の大団円。シンガポール九鯉洞

目連戯後の大普度。シンガポール九鯉洞




広東省の海陸豊劇。『秦香蓮』。秦香蓮と成長した息子との出会い。秦香蓮は心変わりした夫にもめげぬ健気な女性。この構図は初期南戯以来のもの。

莆仙戯。莆田市内文峰天后宮の仮設舞台。夜の観客4百人余り。莆仙戯は神々の慶誕、個々の家の願ほどきなどにも奉納される。莆田地区ではほぼ年中みられる。

 海陸豊劇の映像
映像1 白字戯『蟠桃赴会』より サチを分ける
映像2 白字戯『秦香蓮』より 息子を想う / 和解する秦香蓮
 
映像3 白字戯『劉咬臍出世(『白兎記』)』より 李三娘と夫劉智遠の別れ /  夫を想う / 咬臍、劉智遠に母の窮状を告げる
映像4 正字戯『』『紀銮英生子』より  紀銮英の勇姿、出産
映像5 正字戯『五虎平西』より  飛龍公主、狄青を襲う


 白字戯   明代初期あるいはそれ以前に福建南部からはいってきたものと在地のことば、芸能とが融合して形成された。
曲調は「曲牌聯綴体」が基本で、民歌を混ぜる。歌のあいだにアイアイということばを多用するので白字戯は俗称「啊咿噯(アイアイ)」とよばれる。ちなみにアイアイによりもたらされる世界は、印象としては、パンソリ、演歌のそれと同様のものである。これはよくも悪しくも南戯の始発の姿に通じるものとおもわれる。つまり鎮魂祭祀の世俗化した姿ということである。

 正字戯  正字戯(原名正音戯)は南戯の伝統を受け継ぐ弋陽腔に由来し、これに民間の曲調が加味されてできあがった。それは明代初期にはおこなわれていた。正字戯には武戯と文戯の別があり、総数二千ほどの劇目がある。ただし、武戯が圧倒的に多い。これは科白はあるが歌唱がないもの、すなわち提綱戯である。正字戯は中原地方の官話を用いて演じる(呂匹『海陸豊戯見聞』、1-2頁参照)。


穆桂英。夫は宋将楊宗保。これを処刑の危機から救済する。四平戯『楊六郎斬子』。
映像 穆桂英の勇姿

海陸豊劇の紀銮英生子』。明清代以降、南戯には戦う女性がしばしば登場する。西王母に行き着くものだろう。

韓国男寺党の人形戯末尾は造寺。喜捨を施した観客への祝福で終える。東アジアの戯場、倡優は元来、仏教寺院が育んだ。

 目連戯、海陸豊劇(広東東部)、莆仙戯は南戯の世界に含まれる。その南戯の根柢には仏教文化が潜むことが知られている。南戯は演劇だが、実態は娯楽を兼ねた敬神行為である。これは朝鮮のクッと類似している。雑劇としての初期南戯(宋代)が仏教文化を通して戯曲に至るまでの芸能史を四つの項目から考察した。
 1.寺院の戯場と優人 
 2.寺院と鎮魂のかかわり
 3.南戯のなかの女性とその救済の類型
 4.仏教と傀儡戯
  「戯場」は漢訳仏典中の語である。戯場では俳優が梵劇を演じた。彼らは滑稽戯をする。梵劇は漢訳台本が存在し、中国でも演じられたことがわかる。梵劇と南戯は演出形態、傀儡戯との結びつきなどの点で関連性がある。また密教の手印や菩薩像などが南戯の表演に影響している。
 唐以降、亡魂の追善(超度)が顕著になる。これは新羅、高麗、さらに日本の御霊信仰にも連なるだろう。ことに孤魂の救済が重要となった。このための祭祀をはじめたのは仏教であろう。それが盂蘭盆会であり、水陸会である。南戯はこれに対するひとつの回答とみられる。初期代表作『趙貞女蔡二郎』『王魁』の女主人公はあえなく死ぬ。それは孤魂になりかねない。初期の南戯はその祭祀芸能だったとみられる。そして、後代の作品にも同じ主題が反復される。ただし明清代には道教の系譜から登場した巾幗(女)英雄も際立つ。女性の英傑はおそらく古代の女性首長の時代に遡るもので、由来は古いものだろう。それが、明清の時代に文化史の表層に浮上した。これは廟会に集う女性観客の意向を反映したものとみられる。一方、仏教はまた儺戯としての傀儡戯に大きな影響を及ぼした。傀儡の作成、操り人形の利用は仏教においてなされた。また舞台を浄める独特の咒語がある。これは陀羅尼によるものだろう。

 朝鮮半島周辺との関わり6  南戯は宋代の『趙貞女蔡二郎』にはじまり、元末高則誠の『琵琶記』に至り一定の評価を得た。物語の骨子は同一であっだが、終局は異なる。『琵琶記』の女主人公は妻として再び夫に迎えられる。趙貞女型の作品は数多い。それはもとは慰霊の語り物であったが、改作を経つつ、団円の戯曲となった。これは18世紀以降にパンソリ『春香歌』が経た経緯と同じである。南戯は当初は文人が直視するような声調のものではなかった。それは民間の俗曲であり、物語も大概は型にはまった通俗劇である。パンソリもまた同じであった。 パンソリの発生については定説はない。しかし、宋元の時期に中国江南の南戯の世界で起こったことを視野に入れるならば、女性の死霊慰撫の物語は当初は寺院の戯場で語られたものというべきであろう。つまり、これははじめから男の唱道者、歌い手が歌ったとみられる。
 一方、傀儡戯もまた仏教の影響を大きく受けている。傀儡戯を仏教の側から全体としてみるとき、人生は傀儡戯のごとしという感懐が綴られる。高麗の李奎報もまたそう述べた。これは実は中国の経典や文集にもみられる。また演戯の説明役朴僉知には、宋代雑劇の「引戯」という人物に通じる点がある。、さらに演戯の開始に先だって唱えられる咒語も仏教とかかわる。それが唱えられると、戯神以下の人物が登場する。中国では囉哩嗹(ルォリレン)…、朝鮮ではティルテイル ティオラ…、日本の佐渡ではピーヤル ルル ルウル…(能ではトウトウタラリ…)。これらはいずれも密教の陀羅尼に由来するものであろう。
 洪同知という登場人物の設定は、儺神の取り込みという面でやはり中国の傀儡戯と通じる。儺者たちは傀儡戯の核心に厄除け、鬼神退治のような演戯を据えた。それを担うのが儺神であり、戯神であった。道教の影響を受けた傀儡戯班は田都元帥のような登場人物を中心にまつる。朝鮮の洪同知は戯神としてまつられることはなかったが、その働きは類似している。

  終わりに

 2007年の秋から今日(2008年7月現在)まで上海の復旦大学教員宿舎で静かな日々を送った。この間、大学図書館にインターネット接続をして全国に散在する祭祀芸能関係の論文を読んだ。1997年から2007年までの全国の論文がPDF形式で網羅され公開されている。これはわたしのような異邦人には実にありがたいことであった。「韓流」を検索すると千を超える論著がある。わが愛する「大長今」は、関連文件は七百余り。しかし、張保皐のばあいは、研究論文を含めても全部で26しかない等々。
 閑話休題。
 わたしは、携帯用のノートパソコンだけを頼りにこの「東シナ海祭祀芸能史論のすすめ」を書いた。そして、感じた。日本の研究機関はもっと全面的に文書を公開すべきだと。紀要などは山積みされて最後は棄てられる。早いところすべての人が全文を読めるようにしたらいい。研究者の撮った写真なども私蔵(死蔵?)せずに解説を付けてどんどん公開すべきだとおもう。それが研究三昧を許された者の恩返しというものではないか。
 世には孤独な研究者がたくさんいる。大学や研究所の門をくぐるのがおっくうなだけで、実は向学心に燃えた人は数多い。そうした人を念頭に置きながらこの小文を綴った。

   (2008.7.11記)(2009.7.17補遺)(2013.7.14補遺)

  慶應義塾大学 アジア基層文化研究会