多良間島の豊年祭 (2008年の記録。図録と映像)
                                           野村伸一

 2008年9月7日(旧暦8月8日)から9日まで多良間島で豊年祭がおこなわれた。

 多良間島では毎年、仲筋と塩川の両集落で八月御願、そして八月踊りがおこなわれる。
 八月御願  多良間を含む宮古、八重山では1637年に人頭税が実施された。以来、人びとは七月に税を納め、八月は御嶽で祭祀をおこなった。税を皆納し、一年の五穀豊穣を感謝し、きたる年の豊饒を祈った。ここから八月踊りがはじまったとみられる(多良間村文化財保護委員会編著『多良間島の八月踊り』、多良間村教育委員会、1975年、11頁)。
 今日はこれを豊年祭とよぶ。旧8月8日は仲筋の正日、9日は塩川の正日として、人びとはそれぞれの御嶽に見物にいく。演目は両字ともに以下のとおり。
  @総引き(顔見せ、獅子舞、膨など) A福禄寿(塩川では「長寿の大主) B若衆踊 C女踊 D二才踊 E狂言 F総引き
10日は両字ともに「別れ」と称して各自の御嶽で再度同じ奉納芸を演じる。
 なお8日は芸能の前に御嶽にいく。仲筋は多良間神社、運城御嶽(芸能奉納)、泊御嶽、塩川は嶺間御嶽、塩川御嶽(芸能奉納)、普天間御嶽。それぞれ豊作に感謝し、きたる年の豊作祈願をする(『沖縄大百科事典』)。

 組踊  多良間では首里から将来した組踊が村人により演じられる。これは19世紀末(明治のはじめ頃)に伝来したという。古典芸能の趣のある組踊だけでなく、獅子舞、福禄寿、棒の表演などは中国の芸能に由来する。ただし、多良間島では、地域の人びとにより伝承されていて十分に民俗化している。2008年の現在、なお、かなりの青年、壮年が参加していて、比較的熱気が感じられた。組踊などは長い台詞を覚えなければならず、これを演じきるのはそうたやすいことではない。一年一度の祭祀への理解がなければ早晩伝承されなくなってしまう類いのものである。そうした点でもこの豊年祭は注目に値する。
 一方、多良間では御願の担い手であるツカサは元来の活動をしていない。ここでは現在、祭祀は男性中心に営まれている感がある。組踊はもとは士族の奉納芸能であった。しかし、今日(1959年頃から)では組踊は希望者は誰でも踊れるようになった。今ではその上演が中心となって地域共同体の結束がはかられている。女性の参加もみられるが、中心は男たちである。南島では一般に、女性による祭祀が際立つが、豊年祭の踊りにおいては男の活躍が顕著である。本格的な芸能は男が担ったということであろう。
 


福禄寿。みずからを福禄と名乗りつつ、国や地域の安泰を祝福する。そして若い者たちに踊りや狂言を披露させることを口上する。仲筋

狂言。

組踊『忠臣仲宗根豊見親組』。豊見親(とぅゆみや)は与那国の鬼虎(右端)を征伐するために、オーガマとクイガマの姉妹を送る。仲筋

二人の美貌に見とれた鬼虎は油断して首をとられる。仲筋

組踊『大川敵討』。姑とともに逃げ延びる途中、乙樽はわが子を捨てる。三時間の長編。仲筋

乙樽の道行。


乙樽は夫村原を助けるため、大川城に乗り込み、谷茶に取り入る。のち谷茶を討ち取る。

終わりの総引きでは獅子舞にも一段と熱がこもる。仲筋

獅子舞。仲筋

獅子舞。仲筋

仲筋の終わりの総引き。熱気に包まれて豊年祭の真骨頂。

塩川の終わりの総引き。

総引きは子供たちの楽しみの場でもある。塩川

 映像
 福禄寿  
みずからを福禄と名乗りつつ、国や地域の安泰を祝福する。そして若い者たちに踊りや狂言を披露させることを口上する。仲筋。他地域の長者の大主と同じ(塩川では「長寿の大主」という)。

 
まかり出たるは、福禄と申すもので御座る。さても当今の御仁徳には、四海浪静かにて、国も豊かに民栄え、…
先一番に若衆躍、二番に女躍、三番に二才躍、四番よりはそれぞれの狂言で御座る。何ぞお見ざましい事ではありませねども、何れも様、緩りと御見物下さいませ、おなぐさめにならば、誠に有難い事で御座る。

 組踊『大川敵討(てきうち)』(『忠孝夫人村原(むらばる)組』)  
第二幕。乙樽、子を棄てる。姑とともに逃げ延びる途中、乙樽はわが子を捨てる。のち乙樽は夫村原を助けて、大川城を乗っ取った谷茶を打ち倒す。仲筋
乙樽の謡い。

 三人の者や大川の按司の頭役村原か母や
 とぢなし子谷茶(たんちゃ)あまやが野心事汚てのの
 事も思ぬ大川の按司の国々の按司部
 討んてやり[討ってやろう] しゆんて[告げて]嶋々よ廻て色々に言なち
 加勢頼入軍押寄て按司そへと共に村原のひやも
 討死よてやりしらしへのありは<告げる人があるので> 夢現
 こころ肝もきもならぬ<気が気でない> 無常の此世界や
 かにもあるいやああや前よなく涙ともに
 なひふしやとあすが<なりたいのであるが> 忍ひ隠とて壱人子
 乙松や取素立取素立 ひとになちからに<一人前の立派な人に成長させてから> 親ふしの
 跡や<祖先のあと> 継しふしやのたうたう落るつよ
 泪も押払押払 御気張よめしやうれ<がんばってください>
 御供しやべら

  <>は原注(頭注)、[]は野村注。
   (当間一郎、友利安徳編著『沖縄多良間島の組踊』、那覇出版社、1973年、76-77頁)

 総引き(4分)
  一日の芸能のはじめと終わりに総引きがある。全員の行進である。終わりの総引きは手拍子に包まれ熱気に満ちている。獅子舞は朝にもあるが、総引きの舞は一段とおもしろい。獅子遣いが退いても獅子は容易にさがらない。総引きでは、学校の先生方も進んで参加し、地域がまさに一体となる。これは八月踊りの真骨頂といえる。そしてこれは今日たいへん貴重なものとなりつつある。(2008年9月7日、仲筋)

 (2010.10.26更新) (2013.4.29 補遺)

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