貴州省徳江の儺堂戯(第二稿、附映像)
                                                         野村伸一

 *本稿は「貴州省徳江の儺堂戯 (1995年の記録)(附映像)」に基づいて、補訂を加えたものです。文中の映像(Ⅰ~Ⅴ)は別途に編集しました。ただし、図版は同一なので、ここでは多くは略しました。初稿を参照してください。


儺公儺母の舞。「24.送神上馬」

 儺戯の典型は現在は中国西南部に多くみられる。そこで、そのひとつ、貴州省徳江(ダージャン)の事例をやや詳しくみておきたい。 

 1 貴州省の儺戯の概要

 儺戯の分布  儺礼および儺戯は現在、江西省、貴州省、雲南省、四川省などでみられる。「儺戯系統に属する劇の種類は、現在知られているもので約二、三十」ある。漢族のほかチワン、苗、佈依、侗、彜、土家、コーラオ、ムーラオ、チベット、メンパ、モンゴルなどの民族に伝承されている*1。
 貴州省の儺  貴州省では漢族のほか、土家(トゥジャ)、コーラオ、苗(ミャオ)、彜(イー)、侗(トン)といった、少数民族の居住する地方で儺戯が伝承されている。貴州省の儺は三分される。第一は貴州省の東部、湖南省に接した地域の儺である。徳江はここに含まれる。この地域の儺は互いに似た点が多い。それは四川省東南部および湖南省西部のものと似ている。
 第二は安順県の老漢族が伝承する「地戯(ディシ)」である。仮面の者たちが歴史上の人物に扮して戦闘場面をくり広げる。もっとも、これは「玩新春」とか「跳米花神」ともよばれる。すなわち、一年のはじまりを画すもの、あるいはコメの増産を祈願するものである。元来は初春の儺であったとみられる。
 第三は貴州省西部の高原地帯に住む彜族が伝える撮泰吉(ツォタイジ)である。ここでは正月のはじめに村外から訪れる仮面の者たちが村および家を祝福する。伊藤清司によると、仮面をつけた者は元は男女の神だけで、従者たちは仮面をつけていなかったようである。この男女の神は農事を予祝し、病人を癒し、かまけわざもした。かれらは年末年始に訪れて疲弊した村の秩序をすべて根元にもどして帰っていく*2
 貴州省の東部の「儺戯」(儺堂戯)では、地域に住む巫(土老師 トゥラオシ)が主として家の要請を受けて、家のなかで巫儀を施す。巫は男が中心である。彼らは祭儀のなかで仮面戯をし、地域や家の祝福をより確かなものとする。また、そこになお、いくつか験力を誇示するかのような呪術的な所作が加えられる(後述の「開紅山」「殺鏵」など)。
 徳江県の儺戯の概要は庹修明(トゥオ・シウミン)「貴州省徳江県トゥチャ族の仮面劇」や田仲一成「堂儺の伝播(上)-黔東土家族の〝過関煞〟」*3で知ることができる。

 *1 庹修明「貴州省徳江県トゥチャ族の仮面劇」後藤淑・廣田律子編『中国少数民族の仮面劇』、木耳社、1991年、18頁。
 *2 伊藤清司「雲貴高原のまろうど神」、1989年、6,7頁。
 *3 田仲一成『中国巫系演劇研究』、東京大学出版会、1993年、1061-1107頁。             

 
    ▲冉家祭場

  2 徳江の儺堂戯
 貴州省徳江県青竜鎮橋頭村香樹園の冉(ラン)氏宅では、9歳になる男の子瑞強(ルイチャン)君が健康に育つことを祈願して儺堂戯「過関煞(グォグァンサ)」をした。担い手となった土家族の巫師土老師はもともと県内の穏坪村に住んでいた張毓福(ジャン・ユーフー)ほか5名で、期間は3日間であった。この土老師らは茅山(マオシャン)派の巫師である。田仲一成によると、過関煞とは「生長期の児童が病弱多病であるとき、その原因を〝関煞神〟がその子に害を加えていることにあると考え、巫師を招いてその子に〝関〟を通過させる儀式」のことである。
 儺公、儺母  祭壇は屋内に設ける。正面に儺公、儺母の木像を置き、その背後、上部には左から玉清・太清・上清を描いた三清図が掛けられる。これらは道教において最高位に位置する神である。また左奥には、土老師たちの先生をまつる「師壇」があり、師檀図が懸けられる。これは一種の系図である。張毓福によると儺公、儺母はもと、実の兄と妹で洪水の際に逃れて、のち人間をはじめて造ったという。これとは別に、儺公、儺母は恋愛を阻まれて川に投身した男女のことであるともいう。また、王により殺された男女であったが、のちに民衆の間で手厚く弔われ、霊験を発揮したことから、広くまつられるに至ったという伝承もある。これらの伝承によると、彼らの死霊が地域に災いをもたらし、それを除くためにまつられたということも考えられる。現在では、所願成就ののちの願ほどきの儺戯もおこなうが、もとは危機克服のためにするものだったのだろう。いずれにしても、土老師が儀礼のあいだ直接、向き合っているのは儺公、儺母である。これは祭儀の最終段階で送り返される(後述「24.送神上馬(游儺渉海))。
   
 3 次第一覧
 *詳細はウェブ「貴州省徳江の儺堂戯 (1995年の記録)(附映像)」参照。以下の説明はその概要。

 映像Ⅰ[クリックで再生] 開壇。搭橋。立楼。造席。安営扎寨。(3分48秒)
  
 1.開壇(1995年11月18日)
 楽器は銅鑼(大、小)、太鼓、牛角。土老師の踏む筵は九州(世界)を表す。


開壇

 2.発文敬竃 
 土老師が祈願内容を記した表函を盆に載せ、舞う。そして功曹*4を通して天界の神に伝え、次に竃神をまつる。
 3. 搭橋 
 神来臨のための橋掛け。橋安には竜船、神がみがえがかれている。橋には門があり、神が着座したのち、神送りのときまで門を閉め、儀礼の最後に橋を外す。この橋掛かりと神来臨の形は注目される。


搭橋

 4.立楼 
 神のために高殿を作る。土老師はこれを楽しげに演じる。済州島でも、神よばいのあと、神門が開き(神宮門開き)、神の坐定のさまが唱え演じられる。
 5.造席
 神がみの座席準備。土老師は筵を巻いたものを携えて軽妙に踊る。劉枝萬によると、これには辟邪の意味がある*5
 6.安営扎寨
 土老師二人で五方(東西南北中央)に軍営を設け鬼を払う。唱えごと。

 *4功曹は三清に人間界のことを伝達する者。功曹殿にまつられている。
 *5劉枝萬『中国道教の祭りと信仰』下、桜楓社、1984年、389頁以下。劉枝萬は大元神楽の「ござ舞い」をも指摘しているが、的を射た指摘である(414頁)。

 映像Ⅱ  和会交標。差発五猖兵馬。大游儺。開紅山。開山猛将。開路将軍。(4分45秒)

 7.和会交標(11月19日、二日目)
 神がみの和会。神の由来を踊り、語る。交標童子、 交標小姐(若いむすめ)、和尚の3人による仮面戯。和尚の役割は、この儺の主催者の真心を調べ、また儀礼の準備が十分なされているかどうかを確かめることにあった(前引『徳江儺堂戯』、29頁参照)。中国には大頭和尚*6の伝統がある。


和会交標

 8.差発五猖兵馬
 土老師二人による小山の舞(人形、二体に対応)。小山は五方の兵馬を司る神で、鬼の追却を指揮する。また土老師は悪鬼を追いやるために杖の先に火を付け、これを振り回す。さらに鶏を杖の上に立てて験力を誇示する。鳥を用いた巫儀は済州島などでもみられる。これは古い習わしである*7
 9.大游儺  儺公儺母のあそび。
 10.開紅山
 土老師の験力の誇示。当該の家の吉凶のを占い。土老師は茅人の化身である。
 11.開山猛将 開山は斧をふるって岩を砕き、鬼を払う。
 12.開路将軍
 長い大刀をふるって跳舞する。その趣旨は祭場を整え、秩序を維持することである。儺戯には必ず境界を定める者が現われる*8。 13.判牲
神饌献上。豚が犠牲にされる。
 14.膛白
 儺公、儺母へ犠牲の豚を捧げ神意を占う。

 *6月明和尚が妓女の誘惑に負けるというもので宋代以降流行し(浜一衛『日本芸能の源流 散楽考』、角川書店、1968年、210-211頁)、朝鮮や日本にもその影響がみられた。
 *7鶏の通霊性については、可児弘明「広東巫俗<贖魂舞>について」宮家準・鈴木正崇編『東アジアのシャーマニズムと民俗』、勁草書房、1994年参照。
 *8これは方相氏に由来するのだろう。チベット系の寺院の儺では黒帽の行者がこの役を担う。伎楽の「治道」、また芸能にみられるサルタヒコ、朝鮮の北青獅子戯の「道案内」や仮面戯のマルトゥギなどはいずれも同じ位相の上にあるといえよう。

 映像Ⅲ  開洞。秦童。(2分46秒)
 15.開洞
 仮面戯の開始を告げる儀。仮面はすべて桃園にある。桃園の鍵を開けるのが尖角将軍である。この将軍は家の主に迎えられ、さらに唐氏仙娘に出会い、ふたりは仲良くなる。そこへ和尚や医者がくる。将軍と唐氏仙娘は桃園の戸を開けにいく。
 16.秦童
 秦童は主人格の甘生をこけにする。主人の甘生は科挙に落第し、下僕の秦童は受かる。

 映像Ⅳ  造船清火。殺鏵 。梁山土地、押兵先師。李龍。上刀梯。(3分18秒)

 17.造船清火
 土老師は鳥と藁で作った船を携え(映像参照)、家の外にいって棄てる。そのあとで木片に火をつけ、これを持って家の隅々をきよめてまわる。災いを船に載せ外に捨てるのは東アジアでは各地でみられる*9
 18.殺鏵
 土老師の験力誇示。熱した鋤を素足で踏み、舐める。百戯、雑戯の伝統。

 19.梁山土地、押兵先師(11月20日、三日目)
 1人の土老師が連続して演じる。農民が「梁山土地」の跳舞を数多くみると収穫が増えるという。押兵先師は神と兵馬を連れて儺壇に到来し、主側の平安を保保持してやる。
 20.李龍
 土老師三人による仮面戯。李龍は古風な来訪者。実は唐の天子だという。福威があるので人間世界の一切の苦難を身に引き受けることができる。唐王叫化ともいう。李龍は主側から酒食をもらい、のちこれを路地に投じ、雑鬼をもてなす。これは日本古代のほかい人の来訪をおもわせる。宋代の打夜胡*10の系統の者であろうか。祝福者でもある*11


李龍

 21.上熟
 供物献上。
 22.上刀梯
 土老師が素足で刀上りをする。*12。百戯、雑戯の伝統を継いだもの。

 *9なお、送船のときに、土老師は、「五方男女孤魂は来りて、宝馬銀銭、粮習水飯を領受し、神船一只は、別方に游行して顕化されよ」と唱える(前引《徳江儺堂戯 》資料採編組編『徳江儺堂戯』、205頁)。この船送りの盛大化したものが台湾南部の王爺船である。
 *10打夜胡は、年末に神鬼に扮して追儺をする乞食で、宋代では神鬼以外の者にも扮して観客を喜ばせた。『東京夢華録』、巻十、十二月の条には、貧しい者三人が婦人や神鬼に扮し、鑼を敲き鼓を撃ち、門付けをして銭を乞うと述べられている(前引浜一衛『日本芸能の源流 散楽考』、240頁)。
 *11たとえば大門にはいるときの唱え詞では「 左脚が門を跨げば貴子を生み、右脚が門を跨げば貴儿が生まれる。双脚斉に跨ぎ進れば男は富貴、女は聡明なるべし」などともいう(前引《徳江儺堂戯 》資料採編組編『徳江儺堂戯』、383頁参照)。
 *12子供の十の関門が刀によって象徴され、これを上ることはすなわち煞を除くことという期待も込められるという(前引、田仲一成『中国巫系演劇研究』、1093頁)。

 映像Ⅴ  過関。(3分36秒)

 23.過関
 今回の儺戯の眼目である。子供の霊魂が煞神にとりつかれないように、「関」ごとに十二いる煞を払っていく。茶碗十二個で十二霊関を象る。関の卦が陰のとき、茶碗は神棍(杖)により突き壊される。最後に子供は筒をくぐり抜けて厄払いを完了する。


過関

 24.送神上馬(游儺渉海)
 神送りの儀である。土老師が儺公、儺母の神像を両手に掲げて踊りながら送り返す。このあと祭場の飾りをすべて取り除く。
 25.安香火
 居残る鬼神の追却。火で祭場をきよめる。 
 26.掃蕩
 祭場を掃ききよめて儀礼を終える。

  4 徳江の儺堂戯の特徴
 比較対照の見地から全体の儀とその意味を振り返ってみる。

 1) 初日の神よばい

 初日、午前10時過ぎにはじまった開壇から造席までの一連の祭儀は昼食をはさんで夜、8時過ぎまでおこなわれた。それは儺公、儺母以下の神がみを来臨させるための手続きである。この長い請神儀礼は済州島の巫俗儀礼チョガムジェなどにもみられる。もとは道教の行儀なのであろう。

 2) 土老師の家系と活動
 今回のチームのまとめ役張毓福の来歴は次のとおりである。
 1995年現在、45歳。代々が土老師で、自分の代までで62代になる*13。14歳で儀礼をはじめ、22歳のときに、正式な土老師になる儀礼「跳神」をやった。これは7日間の儀礼である。祭儀は陰暦の10月から12月にかけてが多く、ときには一冬で60回もやる。
 これは1980年以来のこと。儺は3日間、7日間の規模でやることが多い。そのきっかけは、「病気治し」「還暦の祝い」「子供の成長祈願」「家庭の慶事、不幸」などで、まれに村に火事などの不祥事があったとき、掃寨といって、一日二日、祓えの儀をすることもある。
 今回の土老師は6名、そのひとりひとりが独特な雰囲気を持っていたが、張毓福のいわば巫師としての行為のほかには、開紅山や殺鏵などの呪的な儀礼が目についた。
 土老師は神をよぶ巫であると同時に、よばれた神霊にもなり代わる。その際、巫女と違うのは仮面を着ける点である。また激しい身体訓練を必要とする百戯あるいは雑戯をも演じる。

 *13 一代20年としておよそ1200年前、すなわち唐代からのものということになる。確実な系図としては26代を数えるものがあるという(前引、庹修明「貴州省徳江県トゥチャ族の仮面劇」23頁)。これだと明代以降のものとなる。こうした民間のあそびの起源は特定しがたい。儺堂戯などは宋、元以来、民間で孤魂野鬼をまつり、儺が多様化したことを土台にして成立したものとしておきたい。

 3) 小考―はじめの仮面戯
 徳江の儺堂戯には仮面戯がある。儺儀は一般に仮面戯を特色とする。素朴なものから、物語性のあるものまで各種ある。以下では原初的な仮面戯の成立について小考を加えた。
 「祭祀」と「芸能」の結びつき、その境界  儺戯の二日目は和会交標ではじまった。これは童子、むすめ、和尚が、この場に招かれた儺公、儺母以下の神の来歴をかたりつつ踊るもので、いわば前日の招神儀礼の再演である。しかも、それは多分に滑稽に演じられる。厳粛な請神儀礼とそれを世俗的に演じてみせること―こうした演戯は巫俗儀礼に通有のかたちのようである。たとえば韓国東海岸の別神クッのなかでも、世尊クッという巫女の儀礼に対して、その直後に楽士(男巫)たちが寸劇のようなかたちで盗人坊主捕らえを演じる。厳粛さと世俗性、両者のあいだには「祭祀」と「芸能」の結びつき、同時に境界のようなものがある。前者は巫の領域、後者は倡優の領域ともいえようか。そして土老師の祭祀儀礼ではこれが同一人によっておこなわれる。
 開山、開路  開山猛将、開路将軍の所作は諸種の神来臨のための道均しになる。それは神の世界と人間の住むところのあいだには険しい道が横たわっているということをも意味する。この見方は済州島の迎え(マジ)クッにおける道均しという段でもみられる。ジルチムのなかで、神房(巫覡)は竹の棒を携えて鋤き起こしの仕種をみせる。
 開山猛将はもと冀州(ジージョウ)崔家荘に住んでいた武将で、崔洪といった。鋭利な斧を携えてその地区に現れる妖怪を退治した。そのため、今でも人びとは病気になると、土老師に頼んでこの開山猛将の演戯をしてもらうという*14。開山猛将はムラの閉塞状況のときに現れるとみられていた。
 尖角将軍  尖角将軍は戸口にくるや、腕力を誇示する。そして、唐氏仙娘に出会い、仲よくなる。二人は桃園洞にでかけてゆく。桃園洞の鍵を管理するのはこのむすめで、彼女だけが「二十四の劇(即ち二十四の仮面)を運びだすことができる」といわれている*15。そして、ここの扉を開けると、間もなくして、うつけの若旦那甘生としたたかな下僕役の秦童が登場する。逆境にある秦童が主人をやりこめると、居並ぶムラ人は喝采する。
尖角将軍は先導する儺者  一連の仮面戯の文脈をたどるとき、次のことがいえるだろう。まず、共同体の困窮した状況を救う儀礼の場に神がみをよぶことはそうたやすくはない。土老師の長い請神儀礼がそれを示している。尖角将軍はそれをもう一度わかりやすくやってみせる。尖角将軍は巫女役の唐氏仙娘といっしょになって、神霊たちの登場を促す。尖角将軍は先導する儺者である。それは、古代の方相氏の末裔といえるだろう。
 一団の神霊  開洞のあと一団の神霊がやってきて、家を祝福する。秦童は村の人びとの代弁者である。甘生に雇われて都にいくが、賢くて科挙に受かる。一方、甘生は落第したばかりではなく豚殺しの仕事もうまくできない。こうした地位の逆転劇は痛快である。もっとも、秦童は別の地域では夫婦別れを潔くしない愚図の下働きとしても現れる。また、徳江では秦童と類似の身分で優柔不断の軟派(軟童)、その反対の硬童などという者も現れる。要するにこれらの者の登場の意味は村のどこにでもいる者たちがきてあそんでいくということにある。

 *14 前引、庹修明「貴州省徳江県トゥチャ族の仮面劇」、36-38頁。
 *15 前引、庹修明「貴州省徳江県トゥチャ族の仮面劇」、27頁。この将軍や若い女性は金角将軍、唐氏太婆とよばれたりもする。

 朝鮮半島や日本との対照  こうしたひとまとまりの仮面戯は実は朝鮮や日本の仮面戯などでもみられた。いま、その対照すべき点をあげると次のようになる。
 1.仮面戯の冒頭に先導役あるいは境界を定める者が現れること。これは方相氏に溯るだろう。韓国では慶尚南道駕山五広大の冒頭に五方神将が現れる。日本の仮面戯では長野県新野の雪祭の「さいほう」とその「もどき」の二人の登場人物がよく知られている。これらはいずれも同類の人物である。
 
 2.劇的な展開はのちに付加されたもので、はじめは単に神が現れては無言で跳舞して退くかたちだったとみられること。貴州の儺堂戯でも物語を演じるところでは漢族の演目が目に付く。こうした後世の脚色はありうべきものである。日本の神楽においても同じことがみられる。すなわち近世の後半期に古典神話により脚色された岩戸開きやスサノオのおろち退治の劇などが今日の地方の神楽ではよくみられる。韓国の仮面劇では朝鮮朝の両班諷刺などにそうした類型性が多少感じられる。もちろん、ここから、民俗世界の抵抗の精神、独特の言語世界が形成されていったのであり、そのことはまた別の意義を持つ*16

 *16朝鮮の仮面戯で特徴的な下僕マルトゥギは、当初から辛辣な両班諷刺をしたとはおもわれない。それは両班階級の腐敗堕落を目の当たりにした19世紀以降のものであろう。とはいえ、民俗世界には「従者」は古くからあった。これはすでに唐、宋の時代から顕著な活躍をしていた俳優に由来する。彼らは相応に批判、諷刺の持ち主であった。それはたとえば参軍戯に萌芽がみられる。参軍戯は要するに、愚者と智者の問答によるおかしみを表現したものである(前引浜一衛『日本芸能の源流 散楽考』、149頁)。ここでみがかれた言語感覚は俳優たちの共通の伝統となって広く維持されたといえよう。

 3.はじめの仮面戯は世の混乱の際に出現したこと。巫者の祭儀を補い、それを目にみえるかたちに置き換えるのが「将軍」や「五方神将」などの仕事であった。これを演じる者はもとは巫覡の伴奏者あるいは周辺に位置した者で、文献では儺者とか広大、神楽師などと記された。はじめは実際に巡り歩いて危機に瀕した共同体を訪れたのであろう。その危機を民俗世界では「洪水」と表現した。儺公儺母は洪水のなかで生き残った兄と妹である。また朝鮮や日本の仮面戯は洪水のとき、流れきたものにはじまることが多い。つまりはじめの仮面戯は「洪水」という世の乱離に由来する。これをことばではなく、仮面の者が跳舞で表現した。

 4.はじめの仮面戯は神の跳舞を中心としたこと。「儺戯(ヌオシ)」は土老師の用いることばではない。かれら自身は「跳神(跳ぶ神)」という。こちらのほうが核心をうがっている。朝鮮では仮面のあそび(タッロリtallori)とか仮面の舞(タルチュムtalchum)という。日本では神あそびという。要するに、民間でおこなわれた「儺」は祭儀だけで完結するものではなかった。そこにさらに多様な神霊たちの仮面跳舞が加わり、そのことによってはじめて秩序の回復がはかられるものなのであった。仮面を着けて神がみの跳舞を担った者は巫女ではなく、その傍らにいた者たちであったとみられる。                                                                                                              (2010.12.18)

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