「学芸の共和国(Republic of Letters)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。16世紀から18世紀におけるヨーロッパで近代科学を含むさまざまな学問,学芸が国を超えて発展し,新たな知の制度を築いたことを指すものです。このLettersとは言語の文字のことですが,ここでは文芸よりももっと広い学問全体を示していました。慶應義塾大学文学部(Faculty of Letters)の「文(Letters)」も同様に,小説や詩などの文芸に限定されるのではなく,広く「学芸」(学問・芸術・科学)全般を包含する「知」を意味します。
もちろん人類の文化活動の象徴的な成果である文学や言語,そして芸術を学ぶことは,文学部にとって欠くことのできない要素です。しかし私たち文学部の知的探究の領野はそれにとどまりません。真・善・美にかかわる哲学的な叡智の追究,人類の歩みとこれからを展望する歴史的な探究,記録された知識や情報の保存と活用に関する理論と技術の構築,社会の構造や機能についての考察やそれを構成する人間の心,行動,形成などについての科学的検証,さらには文化創成の基盤をなす自然環境と人間との相互作用の解明など,人間と社会そして自然のすべての領域に,私たちの眼差しは向けられています。まさに人類がつくりあげてきた世界の文明,社会や環境,そして人間そのものをめぐるあらゆる分野にわたっているのです。
慶應義塾大学文学部は,組織的には,人文社会学科の1学科制をとっています。その下に5つの学系,17の専攻(哲学系:哲学,倫理学,美学美術史学/史学系:日本史学,東洋史学,西洋史学,民族学考古学/文学系:国文学,中国文学,英米文学,独文学,仏文学/図書館・情報学系:図書館・情報学/人間関係学系:社会学,心理学,教育学,人間科学),さらに自然科学および諸言語の2部門から構成されています。また関連する大学院としては,文学研究科および社会学研究科があります。
文学部には150名を超える専任教員が所属しています。慶應義塾では,理工学部,医学部に次ぐ規模です。各教員は独創的な研究活動を活発に進め,国内外の専門的な各分野で注目を集める成果をあげています。
文学部の一学年800名の皆さんは,専攻を特定することなく入学します。1年次には自然に恵まれた瑞々しい日吉キャンパスにおいて,多彩な学問分野に挑戦します。それによって幅広くかつ豊かな教養を形成するともに,知の基盤をなす語学の習得に努めます。大学というコミュニティに新しく参画する最初の1年間で,知的に,そして人間的に,さらに行動面でもそれぞれの世界を拡張してゆくことになります。
2年次以降は,落ち着きのある伝統の雰囲気をもつ三田キャンパスにおいて,17専攻のいずれかに所属し,専門的で深遠な知の領域に進んでゆきます。文学部が大切にしている教育の特色の一つに,少人数教育があります。ゼミ(研究会)や各種の演習科目をはじめとして三田で開講される多くの授業科目は小規模で,教員と学生,さらに学生同士が親密な関係を保ちつつ,切磋琢磨しながら成長してゆくことができます。
福澤諭吉は,「自我作古(じがさっこ)」という言葉を残しています。これは「我より古を作す(われよりいにしえをなす)」と読み,前人未踏の新しい分野に挑戦し,たとえ困難や試練が待ち受けていても,新たな道を切り開く強い気持ちを表したものです。今,私たちはさまざまな意味で大きな変革の時代にいます。私たちが生きている地球環境も問題を抱えており,社会全体のグローバル化,急速なデジタル化の進展など,従来までの考え方では対応しきれないことが数多く起きています。新型コロナウィルス感染症のために大学のキャンパスで自由に活動できない状況になるとは,誰も予想していませんでした。今後もどのような環境,社会の変化が起きるかわかりません。私たちは,まさに一人一人が前人未踏の領域を歩んでゆくしかないのです。
文学部における環境,社会,人間に関する多様な広い視点からの研究教育は,このような変動が激しく流動化する社会や世界の動向に対して,大きな力を発揮できると考えます。さまざまな人々や社会がいろいろなものの見方や考え方をもつことを尊重する,という意思や姿勢こそ,未踏の領域に新たな道を構築するための基盤となるはずです。文学部での学びは,すぐに役立つ知識やスキルの修得を目指すものではありません。人間とは,文化とは,社会とは,という本質を,教員と学生が共同で探求しています。慶應義塾大学文学部は現代における「学芸の共和国」を目指しているといえます。