概要:
私たちの日々の生活は、人々の責任ある行為を前提として営まれています。そして責任は、それを担う当人が原則として自由であることを条件としていると考えられています。強制のもとでやむなく為された行為、ほかにどうする余地もなかったそれに責任を問うことはできない、というわけです。ですが、私たちが自由であるというのは本当でしょうか。そして、自由のもとではじめて担われる責任とは、何をどのようにすることなのでしょうか。ひとたびこうした疑問に正面から答えようとすると、誰もが当惑を覚えざるをえないのではないでしょうか。
こうした疑問に対して、今回講師としてお招きする瀧川裕英は『責任の意味と制度――負担から応答へ』(2003年、勁草書房)や「他行為可能性は責任の必要条件ではない」(2008年、大阪市立大学『法学雑誌』第55巻第1号)などにおいて、事実としてほかにどうする余地もなかったことは必ずしも責任の条件とはならないこと、そして、そこで担われる責任は負担ではなく応答であることを説得的に論じ、この観点のもとで法体系と法実践を解釈し直す試みに着手しました。
他方、斎藤慶典は『私は自由なのかもしれない――〈責任という自由〉の形而上学』(2018年、慶應義塾大学出版会)において、ハイデガーの「死と良心の分析論」やレヴィナスの「他者」の哲学などの検討を通して、当人にはいかんともしがたい誕生や死や他人を私はそれにもかかわらず「よし」として担いうること、担わざるをえないこと、現に担っていることを示し、これをもって私は「純粋な可能性」のもとで自由となると論じました。
本ワークショップでは、いずれも私たちの行為の根底に応答としての責任を看て取る両哲学者が、それぞれの哲学構想を一層掘り下げるにあたって直面したいくつかの問題を互いに提出し合い率直な議論を重ねることで、責任をめぐる思考をさらに深めていきたいと思います。当日は、瀧川と斎藤がそれぞれ40分ずつ提題を行ない、休憩を挟んで後半の40分は両者による集中的な討議に充てる予定です。会場の皆さんからの積極的な発言も歓迎いたします。