わたしの現在の専門は哲学ですが、もともとは同じ慶應義塾大学の法学部政治学科の出身です。大学院(文学研究科)から本学の哲学専攻に進んで今にいたります。専門領域を哲学へと変更した理由は、その極端さに惹かれたためです。哲学は、何につけても極端です。たとえば、学問を志す以上は、誰であれ懐疑的であることを求められるものです。世間の通説に対してであれ、学界の従来の共通見解に対してであれ、はては自分自身のこれまでの研究キャリアに対してであれ。ところが、ひとたび哲学者が懐疑を発動しようものなら、それはすべてを疑い尽くすまでとどまることがありません。神の存在はもとより、世界の存在、はては自分自身(わたしがわたし自身だと思っている統一的人格としてのこの人)さえも、哲学的懐疑の対象になります。なぜでしょうか。それは、哲学者が純粋に知りたいからです。ひとは普通、ある特定の目的・関心・動機があって、ある特定の情報を得ようとします。学者の場合も基本的には同じです。通常の学問というのは、「学問分野」や「学科」と訳される”discipline”という言葉が示しているように、目的や方法に規制された体系的な知識のことを指します。ところが哲学者は、すべてが本当のところどうなっているのかが純粋に知りたいのです。それが、哲学者が哲学者と呼ばれるゆえんです。なぜなら、われわれ日本人が「哲学者」と訳している言葉は、古代ギリシアで生まれたものですが、もともとそれは、「知に恋い焦がれる者」といったことを意味していたからです。この意味で、哲学は限界まで思考し尽くそうとする、極端な思考です。しかしそれは、哲学の求めているものが「極端」、すなわち、すべてのものの根元だったり、われわれ人間が知りうるものや思考しうるものの限界だったり、究極的な意味で「ある」「存在する」と言えるのは何か、ということだったりするためなのです。