「死への恐怖」に導かれて
哲学専攻へ

「死んだらどうなるのか」、幼少の頃よりそれが怖くてたまりませんでした。死んだら永遠に無なのか、しかし「私」がいない永遠とはなんなのか、考え始めると夜も眠れません。死を前にすると家族も友人も頼りにならない、一人ぽつんと暗闇に立たされているような気がして、どっと汗が吹き出しました。

さて、いよいよ大学受験となった当初、私は経済学部を志望していました。経済に興味があったわけではなく、就職に有利だろうという浅はかな考えからでした。しかし、どうしても勉強に身が入りません。挙句の果てに2年も浪人する羽目になりました。

これではいつまで経っても前へ進めない。この際、食いっぱぐれても構わないから頭にこびりついて離れない「死」の問題に正面から向き合ってやろう。そう考え、文学部に志望をシフトしました。なかでも伝統ある慶應義塾大学の哲学専攻を目指すことにしました。

多彩な講義で自分の
研究が深められた

入学してからは、サークルにも入らずひたすら講義に没頭しました。3年間もつまらない受験勉強をさせられていたので、自分の好きな勉強ができることが嬉しくてたまらなかったのです。催眠術の研究やキリスト教神秘主義など、興味のある講義は片っ端から受講しました。多彩な専門科目を横断して学べるのが慶應の文学部の魅力です。

肝心の「死」についても、様々な講義を受ける中で考えを深めていきました。

歴史を紐解くと、現代人が抱く「死んだら終わり」という意識が実は特殊なものであることがわかってきました。例えば、中世キリスト教社会では死は労苦からの解放として捉えられていました。日本には、古来より自然に帰るという信仰もあります。

つまり私の抱く「死への恐怖」は、近代という時代に特有のものだということがわかってきました。恐怖の正体をつかむためには、近代社会を作った西洋の文化や宗教、言語について一から学ぶ必要があります。哲学専攻には古典研究から現代研究まで、各時代を専門とする先生方が揃っておられました。そうした環境で研究を進めることができたのは幸せなことでした。また友人たちと読書会を開き、本を読み漁ったのもいい思い出です。

「なぜ?」を突き詰める力
を養ってくれた

進路については、研究を続けたいという気持ちがありましたが、2年も浪人する頭ですから能力がついていきません。せめて、うじうじと死のことばかり考えていた自分に広い世界を教えてくれた本に携わる仕事につきたいと、出版社を志望しました。

現在は週刊誌の仕事をしています。抽象的な議論を積み重ねる哲学とは遠い業界のように思われますが、共通点もあります。

それは「なぜ?」という問いに答えるということです。例えばゴシップやスキャンダルがあったとして、読者はなぜそんなことが起こったのかを知りたいわけです。ですから我々は現地まで行って聞き込みをしたり、過去の文献を調べたりします。情報を集め、納得できる理由を考えます。

三田では少人数制のゼミが多く、講義のたびに「なぜ君はそう考えるのか」と教授や学生仲間に追求されました。冷や汗を垂らしながら必死に本を読んで答えていましたが、今ではそうした経験が大きな糧になっていると実感します。 学生の方々には是非、ゼミや読書会などで大いに議論をしていただきたいと思います。そして議論を深めるためにもたくさん本を買ってください。そうすれば私のような人間が、明日も死なずに食っていけるというわけです。